人は、どうして他人を自分の物差しで測ってしまうのでしょうか。
「あの人はもっと働いたほうがいい」
「その年齢なら、これくらい稼いでいるべきだ」
「普通は結婚するでしょう」
「子どもがいるなら、もっと家族との時間を取るべきだ」
「せっかく能力があるのに、なぜもっと上を目指さないのか」
こういう言葉は、世の中にいくらでもあります。
そして逆に、自分もまた他人から同じように測られます。
「もっとこうしたほうがいい」
「普通はこうする」
「みんなそうしている」
「せっかくなのにもったいない」
考えてみると、不思議です。
人間は一人ひとり、かなり条件が違います。
体力も違う。
性格も違う。
家庭環境も違う。
資産も違う。
過去の経験も違う。
得意なことも違う。
苦痛に感じることも違う。
幸せを感じるものも違う。
それなのに、なぜか人間同士になると「同じ物差しで測れる」と思ってしまう。
これを考えるとき、私はカブトムシを例にすると非常に分かりやすいと思います。
カブトムシに「年収が低い」とは言わない
目の前に立派なカブトムシがいたとします。
そのカブトムシを見て、
「こいつ、年収低そうだな」
とは普通思いません。
「もっと勉強したほうがいい」
「43歳ならもっと働くべきだ」
「家族サービスが足りない」
「せっかく能力があるんだから起業したほうがいい」
とも言いません。
当たり前です。
カブトムシは、そんなゲームをしていないからです。
カブトムシにはカブトムシの世界があります。
立派な角がある。
強い個体である。
いい樹液の場所を見つける。
夜に活動する。
繁殖する。
人間の年収や学歴や肩書きなんて、カブトムシにとっては何の意味もありません。
逆も同じです。
もしカブトムシから、
「お前、角小さいな」
「樹液を見つけるの下手だな」
「夜に飛ばないなんて終わってるぞ」
と言われたとしても、たぶん腹は立ちません。
「いや、そのゲームやってないし」
で終わります。
ところが、人間同士になると急にそれができなくなる。
ここが面白いところです。
人間は「近い存在」ほど同じゲームだと思い込む
カブトムシと人間なら違いが大きすぎるので、誰でも別の存在だと分かります。
ところが、
同じ年代。
同じ職業。
同じ学校。
同じ地域。
同じような家族構成。
同じくらいの収入。
同じ業界。
こういう人を見ると、急に私たちは錯覚し始めます。
「この人と自分は、同じゲームをしている」
と。
ここから比較が始まります。
同期が昇進した。
知人の会社が大きくなった。
同級生の年収が高い。
友人の子どもが有名校に入った。
知人が大きな家を建てた。
すると、
「自分は負けているのではないか」
という感覚が生まれる。
でも、そもそも相手と自分は本当に同じゲームをしているのでしょうか。
そこを一度疑ったほうがいい。
人によって「勝利条件」が違う
たとえば仕事を例にしてみます。
ある人にとっては、
売上を増やす。
会社を大きくする。
部下を増やす。
社会的地位を上げる。
年収を上げる。
これが面白いゲームかもしれません。
でも別の人にとっては、
働く時間を減らす。
責任を減らす。
好きな時間に起きる。
家族と過ごす。
一人で静かに本を読む。
こっちのほうが大事かもしれない。
前者から後者を見ると、
「もっと稼げるのにもったいない」
となる。
後者から前者を見ると、
「そんなに忙しくして何が楽しいんだ」
となる。
でも、たぶん両方とも余計なお世話です。
それぞれ別のゲームをしているからです。
片方は「拡大」というゲーム。
片方は「自由」というゲーム。
勝利条件が違う。
なのに、同じ点数表で採点しようとするからおかしくなります。
「勝敗」が成立するのは、同じゲームをしているときだけ
これはかなり重要です。
マラソン選手と重量挙げ選手を比べて、
「こっちのほうが強い」
と言っても意味がありません。
競技が違うからです。
チェスの名人と料理人を比べることにも意味がない。
会社員と専業主婦を同じ年収だけで比較することにも無理があります。
起業家と研究者。
都会で働く人と地方で静かに暮らす人。
子どもを持つ人と持たない人。
独身の人と結婚している人。
たくさん稼ぎたい人と、そこそこで満足したい人。
これらは、同じ人生という大きな枠の中にはいます。
でも、細かく見ればやっているゲームが違います。
だから、本来は同じランキングに並べること自体がおかしい。
ところがSNSでは、全部が一つのタイムラインに並びます。
年収3000万円。
海外旅行。
新築住宅。
子どもの合格。
昇進。
起業。
美しい食事。
筋肉。
資格。
これらが全部同じ画面に出てくる。
すると、脳は勝手に比較を始めます。
しかし、本当はその多くが別競技です。
なぜ近い人ほど嫉妬するのか
不思議なことに、人はあまりにも遠い存在には、そこまで嫉妬しません。
世界的な大富豪を見ても、
「まあ別世界だな」
で終わることが多い。
トップアスリートを見ても、
「すごいな」
で終わる。
ところが、同じ大学の同期が自分より出世していると気になる。
同業者が自分より売上を伸ばしていると気になる。
同じくらいの年齢の人が大きな家を建てると気になる。
これは心理学で昔から研究されている「社会的比較」と非常に相性のいい現象です。
人は、自分と比較可能だと感じる相手ほど、自分の位置を知るための基準にしやすい。
だから、実は嫉妬は「遠い人」より「近い人」に起こりやすい。
カブトムシには嫉妬しない。
大谷翔平にもあまり嫉妬しない。
でも、隣の人には嫉妬する。
この構造はかなり人間らしいものです。
ただし、比較が自然に起きることと、その比較を真実だと思い込むことは別です。
他人の物差しで測られると苦しくなる
さらに厄介なのは、自分が他人を測るだけではなく、他人も自分を測ってくることです。
「普通はこうする」
「せっかくなのに」
「もっと上を目指せばいいのに」
「そんな生き方でいいの?」
こういう言葉を言われると、少し揺らぎます。
なぜなら、相手もそれなりに自信を持って言っているからです。
でも大事なのは、
その人の物差しが、その人の人生には合っているとしても、あなたに合うとは限らない
ということです。
カブトムシの物差しを人間に当てても意味がない。
それと同じように、
他人の成功基準を自分に移植してもうまくいかないことがあります。
むしろ、それを長く続けると、自分の感覚が分からなくなります。
本当は疲れている。
本当は静かに暮らしたい。
本当はもう競争したくない。
本当はもっと家族と過ごしたい。
本当は一人で本を読んでいる時間が好き。
でも、
「みんなやっているから」
「ここまで来たから」
「せっかく能力があるから」
「普通はもっと上を目指すから」
と、自分とは違う物差しに従う。
それを続けると、人生がだんだん他人の所有物になっていきます。
「自分軸」とは、自分勝手になることではない
ここでよく誤解されるのが「自分軸」です。
自分軸というと、
「好き勝手に生きる」
「他人の意見を聞かない」
「自己中心的になる」
というイメージを持つ人もいます。
でも、本来はもっと静かなものです。
他人の意見は聞く。
参考にもする。
成功した人の生き方も見る。
失敗した人の話も聞く。
そのうえで、
「最終的に、自分の人生の採点基準は自分で決める」
というだけです。
他人の生き方はサンプル。
命令書ではありません。
「この人はこういう生き方なんだな」
でいい。
採用したければ採用する。
合わなければ捨てる。
それくらいでいいのだと思います。
自分の物差しで他人を測らない
同時に、これは自分にも返ってきます。
「人の物差しで自分を測るな」
というだけでは半分です。
もう半分は、
「自分の物差しで人を測るな」
です。
自分が仕事好きだからといって、他人も仕事好きであるべきではない。
自分が家族第一だからといって、全員が同じである必要もない。
自分がお金を大切にするからといって、他人も最大化すべきではない。
自分が質素に暮らしたいからといって、贅沢好きな人を否定する必要もない。
自分が一人の時間を好きだからといって、社交好きな人を否定する必要もない。
「なんでそんなことするの?」
ではなく、
「そういうゲームをしているんだな」
くらいでいい。
この距離感があると、かなり楽になります。
人生のノイズは「同じゲームだと思うこと」から増える
比較そのものを完全になくすのは難しいと思います。
人間は比較する生き物だからです。
でも、
「あ、この比較は本当に意味があるのか」
と気づくことはできます。
他人が稼いでいる。
他人が出世した。
他人が大きな家を建てた。
他人の子どもが優秀だった。
そこで心がざわついたとき、
一度こう考えてみる。
「そもそも、その人と私は同じゲームをしているのか?」
違うなら、その比較にはあまり意味がない。
さらに、
「俺はその景品、本当に欲しいのか?」
と考えてみる。
欲しくないなら、もっと意味がない。
他人が一位になった競技に、そもそも自分がエントリーしていなかったのなら、負けたことにはならないのです。
「いや、そのゲームやってないし」
この言葉は、かなり使えると思っています。
誰かを見て焦ったとき。
SNSを見て嫉妬したとき。
「もっとこうしたほうがいい」と言われたとき。
世間の普通から少し外れたとき。
そんなとき、
「いや、そのゲームやってないし」
と心の中で言ってみる。
それだけで少し距離ができます。
もちろん、人間社会には最低限のルールがあります。
法律や倫理、仕事上の責任、他人への配慮は必要です。
でも、それを超えたところにある、
年収。
肩書き。
住む場所。
働き方。
家族の形。
趣味。
成功の形。
幸福の形。
ここまで全部同じである必要はありません。
むしろ違っていて当然です。
人はそれぞれ、違う条件で、違うゲームをしている
人間は、一見よく似ています。
同じ街に住み。
似た服を着て。
同じように働き。
同じようにスマホを見ている。
だからこそ、
「みんな同じルールで生きている」
と錯覚しやすい。
でも本当は違います。
一人ひとり違う条件を持ち、
違うものを大切にし、
違うところで傷つき、
違うところで幸せを感じている。
だったら、
人の物差しで自分を測らない。
自分の物差しで人を測らない。
比較するとしても、
「昨日の自分より、今日は自分の望む方向に進めたか」
くらいでいいのかもしれません。
カブトムシにはカブトムシの人生がある。
人間には人間の人生がある。
そして同じ人間の中でも、それぞれに違う人生がある。
それぞれの道で、いい。
人生のノイズは、それだけでもかなり減るのではないでしょうか。
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