『荘子』には、なんとも不思議な生きものたちが出てくる話があります。
一本足の怪物「夔(き)」、たくさんの足を持つ百足、足のない蛇、そして姿すらない風。
一見すると、昔の変な動物話です。ところが読んでみると、言っていることはかなりシンプルです。
「みんな、同じ生き方をしなくていい」
という話なのです。
一本足の夔、百足をうらやむ
夔は一本足しかありません。
ある日、たくさんの足で器用に歩く百足を見て思います。
「すごいなあ。あんなにたくさんの足を、どうやって動かしているんだろう」
そこで百足に聞きました。
すると百足は、
「そんなこと、いちいち考えてないよ」
と答えます。
たくさんある足を、
「次は右から3本目、その次は左から5本目」
なんて考えて動かしているわけではありません。
ただ歩けば、勝手に足が動く。
百足は蛇をうらやむ
ところが、その百足にも不思議な相手がいました。
蛇です。
蛇には足が一本もありません。
それなのに、スルスルと速く進んでいく。
百足は思います。
「こっちはこんなにたくさん足を動かしているのに、なんで君は足なしで進めるの?」
蛇からすれば答えは簡単です。
「そういう体だから」
です。
蛇は百足になろうとしません。
百足も本当は蛇になる必要がありません。
蛇は風をうらやむ
さらに蛇は風を見ます。
風には足どころか、体すらありません。
それでも北から南へ、自由に吹いていく。
「どうやって動いているんだ?」
と聞かれても、風だって困ります。
風はただ、風として吹いているだけだからです。
ここで荘子が言いたいことが、だんだん見えてきます。
一本足には一本足の動き方がある。
百足には百足の動き方がある。
蛇には蛇の動き方がある。
風には風の動き方がある。
どれが一番正しい、という話ではないのです。
「天機の動く所」
荘子は、こういう自然な働きを「天機」と考えます。
難しそうですが、簡単に言えば、
「そのものが、そのものらしく自然に動く力」
くらいでいいと思います。
鳥は飛ぶ。
魚は泳ぐ。
猫は昼寝する。
子どもは遊ぶ。
いちいち誰かに教わらなくても、自然にそうなる部分があります。
人間も同じです。
ところが人間だけは、
「みんなと同じじゃないといけない」
「もっと頑張らないといけない」
「あの人みたいにならないといけない」
と、自分の足ではない足で歩こうとします。
そこで苦しくなる。
風は、小さな勝負では負ける
この話には、もう一つ面白いところがあります。
風は言います。
指一本でも風を遮ることはできる。
小さな穴でも、壁でも、風は止められる。
だから、小さな勝負だけ見れば風はよく負けます。
でも本気で吹けば、大木を倒し、家すら吹き飛ばす。
つまり、
小さな勝負に全部勝つ必要はない。
ということです。
毎回言い返さなくてもいい。
全部うまくやらなくてもいい。
細かいところで負けても、人生全体がちゃんと流れていればいい。
これはなかなか面白い考え方です。
「自然」とは、何もしないことではない
ここは誤解しやすいところです。
荘子のいう自然は、
「努力するな」
「何もしないで寝ていろ」
という話ではありません。
自転車だって、最初は練習します。
何度も転びます。
でも慣れてしまえば、
「右足を踏んで、ハンドルを2度傾けて……」
なんて考えません。
自然に乗れるようになります。
だから、
練習する → 慣れる → 考えなくてもできる
ということはあります。
努力そのものが悪いのではありません。
努力している自分にずっと力を入れ続けなければならない状態が、不自然なのです。
自分は何本足なのか
この話を読んで思うのは、
「自分は夔なのか、百足なのか、蛇なのか、風なのか」
ということです。
もちろん本当に足の数を数える話ではありません。
自分は、
何をすると自然なのか。
何をすると妙に疲れるのか。
何なら頑張らなくても続くのか。
そこを知るということです。
蛇が百足になろうとしても仕方ありません。
百足が風になろうとしても無理があります。
人間もたぶん同じです。
自分に合う動き方を見つけたほうがいい。
荘子の話は、そんな当たり前のことを、一本足と百足と蛇と風を使って教えてくれます。
結局、かなり単純です。
他人の足で歩こうとしない。
自分の足が一本なら一本でいい。
足がなくても、それで進めるならそれでいい。
風なら、吹けばいい。
それが荘子のいう「自然」なのだと思います。