2026/10/15

「自分の足で生きる」――荘子のちょっと変わった生きもの物語

 



『荘子』には、なんとも不思議な生きものたちが出てくる話があります。

一本足の怪物「夔(き)」、たくさんの足を持つ百足、足のない蛇、そして姿すらない風。

一見すると、昔の変な動物話です。ところが読んでみると、言っていることはかなりシンプルです。

「みんな、同じ生き方をしなくていい」

という話なのです。

一本足の夔、百足をうらやむ

夔は一本足しかありません。

ある日、たくさんの足で器用に歩く百足を見て思います。

「すごいなあ。あんなにたくさんの足を、どうやって動かしているんだろう」

そこで百足に聞きました。

すると百足は、

「そんなこと、いちいち考えてないよ」

と答えます。

たくさんある足を、

「次は右から3本目、その次は左から5本目」

なんて考えて動かしているわけではありません。

ただ歩けば、勝手に足が動く。

百足は蛇をうらやむ

ところが、その百足にも不思議な相手がいました。

蛇です。

蛇には足が一本もありません。

それなのに、スルスルと速く進んでいく。

百足は思います。

「こっちはこんなにたくさん足を動かしているのに、なんで君は足なしで進めるの?」

蛇からすれば答えは簡単です。

「そういう体だから」

です。

蛇は百足になろうとしません。

百足も本当は蛇になる必要がありません。

蛇は風をうらやむ

さらに蛇は風を見ます。

風には足どころか、体すらありません。

それでも北から南へ、自由に吹いていく。

「どうやって動いているんだ?」

と聞かれても、風だって困ります。

風はただ、風として吹いているだけだからです。

ここで荘子が言いたいことが、だんだん見えてきます。

一本足には一本足の動き方がある。

百足には百足の動き方がある。

蛇には蛇の動き方がある。

風には風の動き方がある。

どれが一番正しい、という話ではないのです。

「天機の動く所」

荘子は、こういう自然な働きを「天機」と考えます。

難しそうですが、簡単に言えば、

「そのものが、そのものらしく自然に動く力」

くらいでいいと思います。

鳥は飛ぶ。

魚は泳ぐ。

猫は昼寝する。

子どもは遊ぶ。

いちいち誰かに教わらなくても、自然にそうなる部分があります。

人間も同じです。

ところが人間だけは、

「みんなと同じじゃないといけない」

「もっと頑張らないといけない」

「あの人みたいにならないといけない」

と、自分の足ではない足で歩こうとします。

そこで苦しくなる。

風は、小さな勝負では負ける

この話には、もう一つ面白いところがあります。

風は言います。

指一本でも風を遮ることはできる。

小さな穴でも、壁でも、風は止められる。

だから、小さな勝負だけ見れば風はよく負けます。

でも本気で吹けば、大木を倒し、家すら吹き飛ばす。

つまり、

小さな勝負に全部勝つ必要はない。

ということです。

毎回言い返さなくてもいい。

全部うまくやらなくてもいい。

細かいところで負けても、人生全体がちゃんと流れていればいい。

これはなかなか面白い考え方です。

「自然」とは、何もしないことではない

ここは誤解しやすいところです。

荘子のいう自然は、

「努力するな」

「何もしないで寝ていろ」

という話ではありません。

自転車だって、最初は練習します。

何度も転びます。

でも慣れてしまえば、

「右足を踏んで、ハンドルを2度傾けて……」

なんて考えません。

自然に乗れるようになります。

だから、

練習する → 慣れる → 考えなくてもできる

ということはあります。

努力そのものが悪いのではありません。

努力している自分にずっと力を入れ続けなければならない状態が、不自然なのです。

自分は何本足なのか

この話を読んで思うのは、

「自分は夔なのか、百足なのか、蛇なのか、風なのか」

ということです。

もちろん本当に足の数を数える話ではありません。

自分は、

何をすると自然なのか。

何をすると妙に疲れるのか。

何なら頑張らなくても続くのか。

そこを知るということです。

蛇が百足になろうとしても仕方ありません。

百足が風になろうとしても無理があります。

人間もたぶん同じです。

自分に合う動き方を見つけたほうがいい。

荘子の話は、そんな当たり前のことを、一本足と百足と蛇と風を使って教えてくれます。

結局、かなり単純です。

他人の足で歩こうとしない。

自分の足が一本なら一本でいい。

足がなくても、それで進めるならそれでいい。

風なら、吹けばいい。

それが荘子のいう「自然」なのだと思います。

2026/10/14

Everything Flows

 



Lately, Heraclitus’ idea that “everything flows” has started to feel surprisingly close to Montaigne.

The world keeps changing.
Our bodies, emotions, beliefs, relationships, and societies all change.

And so do we.

What feels true today may feel different ten years from now. That is why Montaigne’s question feels so powerful:

“What do I know?”

It is not a declaration of ignorance. It is a reminder not to cling too tightly to certainty.

Life may not be about building a fixed, finished self.

Maybe it is about learning to live while changing.

Youth is good.
Old age is good.
Beginnings are good.
Endings are good.

Like Zhuangzi, we can see change not as a failure of stability, but as the natural movement of life.

Existence is not fixed. It is transition.
Life is not completion. It is change itself.

2026/10/13

便利になりすぎた時代に、あえて「不便」を残す

 



世の中はどんどん便利になっている。

検索、ナビ、家電、AI。
面倒なことは、かなり減らせるようになった。

もちろん便利なのはいい。

でも最近、「不便益」という考え方が面白いと思った。

あえて少し不便を残すことで、逆に得られるものがある。

という考え方だ。

たとえば、皿洗いや単純な事務作業。

こういうものは機械やAIに任せていい。
時間が浮くなら、そのほうがいい。

ただ問題は、その浮いた時間をまた仕事や効率化で埋めてしまうこと。

それでは、便利になったのに人生は忙しいままだ。

本来、便利さとは、

人間がやらなくてもいいことを減らし、人間がやりたいことに時間を戻すためのもの

ではないだろうか。

一方で、効率化しすぎないほうがいいものもある。

散歩、旅行、料理、読書、遊び、家族との時間。

これらは最短距離で終わらせる必要がない。

むしろ、

迷う。
寄り道する。
失敗する。
ぼーっとする。

そんな「無駄」の中に、面白さがある。

だから自分の中では、こう整理すると分かりやすい。

手段は効率化する。目的は効率化しない。

旅行の予約はAIに任せてもいい。
でも旅そのものは急がなくていい。

情報整理はAIに任せてもいい。
でも考えることまで全部手放さなくていい。

そして、浮いた時間を無理に有効活用しなくてもいい。

昼寝してもいい。
漫画を読んでもいい。
ゲームをしてもいい。
何もしなくてもいい。

荘子的に言えば、これは「無用の用」にも近い。

一見、役に立たない時間が、実は人生を豊かにする。

便利さを使って、不便を楽しむ。

そして、

無用の時間を、無理に有用化しない。

これくらいが、これからの時代にはちょうどいい気がする。

2026/10/12

「線形近似」とは何か? ――世界を“直線”で考える便利さと、その限界

 



「このままいけば、来年はこうなるだろう」

私たちは日常的に、こう考えています。

売上が毎年10%ずつ増えている。
最近、金利が上がっている。
体重が毎月1kgずつ減っている。
仕事が少しずつ忙しくなっている。

すると頭の中では、無意識に一本の直線を引きます。

「今までこうだったのだから、この先もだいたい同じだろう」

これが、かなり大ざっぱに言えば「線形近似」という考え方です。

ただし、線形近似は非常に便利である一方、使い方を間違えると未来を大きく読み違えます。


線形とは「直線で考える」こと

「線形」は英語で Linear。

簡単に言えば、

入力が増えれば、出力も一定の割合で増える

ような関係です。

たとえば、

1個100円のリンゴなら、
2個で200円、
3個で300円。

これはかなりきれいな線形です。

グラフにすれば一直線になります。

世の中が全部こんな仕組みなら、未来予測は簡単です。

現在の変化量を測って、その直線を先まで伸ばせばいい。


線形近似とは「複雑なものを、一時的に直線として扱うこと」

ところが現実の世界は、ほとんどこんなに単純ではありません。

経済も、人間関係も、身体も、社会も、相場も、本当はたくさんの要因が絡み合っています。

そこで人間は、複雑な世界をそのまま扱う代わりに、

「このあたりだけなら、だいたい直線として扱ってもいいだろう」

と単純化します。

これが線形近似です。

数学ではもっと厳密で、ある点の近くでは曲線を接線で近似します。

たとえば曲線があっても、ものすごく拡大して一部分だけ見れば、ほとんど直線に見える。

だから、

近くを見るなら、曲線を直線として扱える。

これが線形近似の基本です。


線形近似は「間違い」ではない

ここは大事です。

線形近似は、雑な考え方だから悪いわけではありません。

むしろ科学、工学、経済、金融など、ものすごく多くの分野で使われています。

なぜなら、

世界を完璧に理解してから判断しようとすると、何も決められないから。

複雑な世界を、いったん扱える大きさまで単純化する。

これは人間にとって必要な知恵です。

問題は、

近似であることを忘れること。

ここから話が変わります。


線形近似の最大の限界

たとえば最近5年間、毎年ある資産が10%ずつ上がったとします。

するとつい、

「このまま10%で増えるのでは?」

と思います。

これも線形的な思考です。

しかし現実には、

金利が変わる。
景気が変わる。
政策が変わる。
競争相手が現れる。
投資家心理が変わる。

条件そのものが変わります。

つまり、

「昨日まで成立していた直線」が、明日も成立する保証はない。

ここが最大の限界です。


小さな変化が、大きな結果を生むことがある

さらに現実世界には「非線形」があります。

原因が2倍になったから、結果も2倍になるとは限りません。

ある温度を超えた瞬間に状態が変わる。

ある負債水準を超えた瞬間に会社が苦しくなる。

ある一言で人間関係が急に変わる。

ほんの小さな出来事が、時間を経て巨大な差になることもあります。

よく言われる「バタフライ効果」も、この文脈に近い考えです。

ただし、

小さな変化が必ず大事件になる、という意味ではありません。

非線形なシステムでは、初期条件の小さな違いが大きな違いに発展することがある、という話です。


人生も、かなり非線形である

人生を振り返ると分かりやすいです。

「毎年10%ずつ幸福になる」

「毎年少しずつ出世して、その延長線上に人生の完成形がある」

そんなふうにはなりません。

たまたま読んだ本。

たまたま会った人。

たまたま始めた趣味。

偶然の病気。

突然の転職。

旅先で感じたこと。

そうした小さな出来事から、人生の方向そのものが変わることがあります。

しかも面白いのは、その出来事が起きた瞬間には、

それが重要な分岐点だとは分からない

ことです。

あとから振り返って初めて、

「あれが転機だったな」

と分かる。

これが、人生を直線で予測する難しさです。


「今の延長線上に未来がある」と思いすぎない

線形近似の一番危険な使い方は、

現在を、そのまま未来へ延長してしまうこと

です。

今うまくいっているから、ずっとうまくいく。

今苦しいから、ずっと苦しい。

今この仕事をしているから、一生この仕事をしている。

今これが好きだから、10年後も同じものが好き。

でも、人も環境も変わります。

だから、

今の自分=未来の自分ではない。

現在は未来の材料ではありますが、完成図ではありません。


では、どう考えればいいのか

線形近似を捨てる必要はありません。

むしろ、

短期の判断には使う。長期の未来には執着しない。

くらいがちょうどいい。

今ある情報から、ひとまず仮の直線を引く。

その直線に沿って少し進む。

でも環境が変わったら、もう一度引き直す。

これでいい。

投資で言えば、予想を固定するのではなく、状況を見ながらリバランスする。

人生なら、方向は持つけれど、経路には執着しない。


世界は「地図」より複雑である

線形近似とは、地図のようなものです。

地図は便利です。

でも、地図そのものが現実ではありません。

地図には風もない。

匂いもない。

坂道のきつさもない。

工事中の道路も、突然降る雨も載っていないかもしれない。

それでも地図は役に立つ。

ただし、

地図を現実そのものだと思った瞬間に、間違いが始まる。

線形近似も同じです。


最後に

未来を考えることは必要です。

予測も必要です。

計画も必要です。

ただ、

未来は一本の直線ではない。

だから、

今ある情報から仮説を立てる。
必要なら動く。
状況が変わったら修正する。
分からないものは、分からないまま持っておく。

それくらいでいい。

一言で言えば、

「未来を直線で決めつけず、流れに合わせて更新する。」

線形近似とは、世界を理解するための便利な道具です。

でも世界そのものは、いつもその道具より複雑です。

だからこそ、

方向は持つ。
でも、経路には執着しない。

そのくらいの柔らかさが、現実を生きるにはちょうどいいのだと思います。

2026/10/11

サザエさん症候群を脳科学で考える なぜ、まだ休みなのに「明日仕事か…」と苦しくなるのか

 



日曜日の夕方。

まだ休みは終わっていない。
夕食まで時間もある。
本来なら、まだのんびりしていていい。

なのに突然、

「明日から仕事か……」

と思った瞬間、気分が重くなる。

いわゆる**「サザエさん症候群」**である。

これは正式な病名ではない。
でも、この感覚そのものは決して不思議ではない。

脳科学的に見ると、脳には少し困った能力がある。

まだ起きていない嫌なことを、先に体験できてしまうのだ。


脳は「明日の仕事」を今日から始める

人間の脳は未来を予測する。

「明日の朝、会社へ行く」

「月曜日は会議がある」

「明日は患者さんがたくさん来る」

実際には何も起きていなくても、頭の中ではその場面をシミュレーションできる。

これは本来、とても便利な能力だ。

未来を予測できるから、準備できるし、危険も避けられる。

ところが、未来に嫌なことが待っている場合、この能力が逆方向に働く。

脳画像研究では、嫌な刺激を実際に受けているときだけでなく、それを待っているときにも、前部島皮質、前帯状皮質、扁桃体などの領域が活動することが示されている。63件のfMRI研究をまとめたメタ解析でも、嫌な出来事を予期するときにこうしたネットワークが一貫して活動している。

つまり、

月曜日になってから苦しむのではない。

日曜日に、

「明日仕事だ」

と認識した時点で、脳の一部はすでに月曜日を始めている。


「まだ5時間休める」が「あと5時間しかない」に変わる

ここがサザエさん症候群の面白いところだ。

同じ日曜日の午後3時でも、

「明日も休み」

なら、あと半日ある。

ところが、

「明日は仕事」

となると、

あと半日しかない。

時間そのものは同じなのに、脳内で意味が変わる。

特に前部島皮質は、身体の状態や「これから嫌なことが起こりそうだ」という感覚に深く関係している。

そのため仕事が近づいてくると、

「休みが終わる」

「自由がなくなる」

「また拘束される」

という未来予測が、現在の感情に入り込んでくる。

これを一言でいうなら、予期ストレスである。


すると身体まで「仕事モード」に入る

これは単なる気分だけの話ではない。

脳がストレスを予測すると、自律神経やホルモン系も動き始める。

まず交感神経系が働き、ノルアドレナリンやアドレナリンなどのカテコールアミンが関与する。

さらに、

視床下部
↓
CRH
↓
下垂体
↓
ACTH
↓
副腎皮質
↓
コルチゾール

というHPA軸と呼ばれるストレス反応系も働く。

重要なのは、このシステムが「実際にストレスが起きたとき」だけでなく、ストレスを予期したときにも作動しうるということだ。

実際、会社員を対象とした研究では、月曜朝の唾液中コルチゾールは日曜朝より高く、特に仕事要求が高く、仕事を強く予期していた人でその傾向がみられた。小規模な研究なので一般化には注意が必要だが、少なくとも「まだ仕事を始めていないのに身体が準備を始める」現象は確認されている。

つまり、

仕事は月曜9時からでも、身体はもっと前から出勤していることがある。


本当に厄介なのは「休みなのに回復できない」こと

仕事から回復するためには、単に職場にいないだけでは足りない。

心理学では、

psychological detachment
=仕事から心理的に離れること

が重要だと考えられている。

何万人もの労働者を含むメタ解析では、仕事から心理的に離れられる人ほど、疲労が少なく、睡眠や生活満足度、ウェルビーイングが良い傾向が示されている。

逆に、

日曜なのに月曜のことを考える。

旅行中なのに休暇明けを考える。

夜なのに翌日の仕事を考える。

こうなると、身体は休んでいても脳は仕事から完全に離れられない。

だから、

「休んでいるのに休んだ感じがしない」

ということが起こる。


長期休暇の後半が楽しめなくなるのも同じ

これは日曜日だけではない。

たとえば10日間の休暇がある。

最初の数日は最高だ。

ところが6日目くらいから、

「あと4日で仕事か」

と思い始める。

翌日は、

「あと3日」

その次は、

「あと2日」

となる。

まだ休暇中なのに、脳内では仕事へのカウントダウンが始まっている。

すると、

未来の仕事が、現在の休暇を食べ始める。

これがサザエさん症候群の拡張版である。


これは「根性がない」からではない

サザエさん症候群になると、

「せっかく休みなのに、なんで楽しめないんだ」

「もっと前向きにならなきゃ」

と思ってしまうことがある。

しかし脳の仕組みを考えると、それほど単純ではない。

嫌な未来がかなり確実に予測できれば、脳がそれに備えるのは正常な反応でもある。

特に、

仕事量が多い
自由度が低い
途中で逃げられない
人間関係のストレスが強い
仕事から心理的に離れにくい

といった条件が重なるほど、予期ストレスは起こりやすくなる。

仕事からの心理的離脱について159研究を検討したレビューでも、高い仕事要求などの職場要因が、オフの時間に仕事から離れることを難しくするとされている。


サザエさん症候群の正体

ものすごく単純化すると、こうなる。

「明日仕事だ」

↓

脳が未来の仕事をシミュレーションする

↓

前部島皮質・前帯状皮質・扁桃体などが
「嫌なものが近づいている」と反応する

↓

交感神経・HPA軸が作動する

↓

ノルアドレナリン、アドレナリン、コルチゾールなどが関与する

↓

身体も心理も警戒モードになる

↓

まだ日曜日なのに、月曜日の苦痛を先払いする。

これが、脳科学から見たサザエさん症候群の一つの説明である。


人間は未来を考えられる。だから未来にも苦しめる

未来を想像できる能力は、人間の大きな武器だ。

予約できる。

計画できる。

旅行もできる。

10年後の人生まで考えられる。

でも同じ能力によって、

明日の苦痛を今日感じることもできてしまう。

実際の仕事時間は8時間でも、

前日の夜から仕事を考えていれば、心理的にはもっと長く仕事に拘束される。

だからサザエさん症候群の本質は、

「仕事が始まっていないのに、脳が先に仕事を始めてしまうこと」

なのかもしれない。

そしてもし、休日のかなりの部分まで未来の仕事に侵食されるようになっているなら、

「もっと休日を楽しもう」

だけでは解決しないこともある。

その場合は、

なぜ自分の脳が、そこまで次の仕事を嫌なものとして予測しているのか。

仕事量なのか。

拘束時間なのか。

人間関係なのか。

自由の少なさなのか。

仕事内容そのものなのか。

そこを見る方が、本質的なのだと思う。

2026/10/10

がんばりすぎないほうが、うまくいく ――『荘子』の「庖丁解牛」という話

 



『荘子』に、ちょっと変わった料理人の話があります。

その料理人の名前は庖丁(ほうてい)。

庖丁は、王様の前で牛を解体していました。

ところが、その仕事ぶりが普通ではありません。

包丁を動かすたびに、
スッ、スッ、と気持ちよく刃が入っていく。

手の動きも、肩の動きも、足の運びも、まるで踊っているようです。

王様は驚いて聞きました。

「どうしたら、そんなに上手にできるんだ?」

庖丁は答えます。

最初のころは、自分にもただの「牛」が見えていました。

だから、

「ここを切ろう」
「次はここだ」

と、目で見て、頭で考えながら切っていた。

ところが3年ほど続けているうちに、だんだん牛を「牛」として見なくなった。

骨がどこにあり、筋がどこにあり、その間にどんな隙間があるのか。

それが自然と分かるようになった。

そこで庖丁は、硬い骨を力任せに切るのをやめました。

骨と肉のあいだにある隙間へ、刃を通す。

すると、ほとんど力がいらない。

普通の料理人は毎月のように包丁を替える。

上手な料理人でも一年ほどで替える。

ところが庖丁の包丁は、19年間使っても刃こぼれしていない。

なぜか。

無理やり切っていないからです。


「頑張るな」という話ではない

ここが面白いところです。

庖丁は最初から天才だったわけではありません。

何年も牛と向き合っています。

つまり、十分に経験を積んだ。

でも、その先でたどり着いたのが、

「もっと力を入れる」ではなかった。

むしろ逆です。

力を抜いて、よく観察して、
物事の構造に逆らわなくなった。

これは老荘思想でいう無為自然にかなり近い考え方です。

何もしない、という意味ではありません。

無理にねじ伏せない。

ということです。


人生にも「骨」と「隙間」がある

私たちは、うまくいかないときほど、

「もっと頑張らなきゃ」
「もっと努力しなきゃ」
「真正面から突破しなきゃ」

と考えがちです。

でも、目の前に大きな骨があるなら、別に骨を叩き割らなくてもいい。

少し横を見れば、隙間があるかもしれない。

正面突破ではなく、回り道でもいい。

力で押すより、流れに乗ったほうがいいこともある。

水も同じです。

岩があれば、水は岩を殴りません。

横へ流れます。

それでも、ちゃんと先へ進んでいく。


「故・性・命」という見方

この話を人生に広げると、こんなふうにも考えられます。

故は、自分では選べなかった条件。
生まれた場所、時代、体質、偶然の出会いなど。

性は、その中で育ってきた自分の性質。
得意なこと、苦手なこと、自然にできること。

そして命は、その条件と性質の中で、自分なりに進んでいく道。

だから、人生は何でも好き勝手に作れるわけではない。

でも、すべてが最初から決まっているわけでもない。

与えられた条件をよく見て、
自分の性質を知り、
通れる隙間を見つけて進んでいく。

それでいいのだと思います。


昔は、

努力とは、力を入れること

だと思っていました。

でも庖丁の話を読むと、少し違って見えてきます。

十分に経験した人ほど、最後は力まなくなる。

無理なところを切らない。
流れを読む。
隙間を使う。

そして自然に刃を進める。

人生もたぶん同じです。

無理に突破しなくてもいい。
よく見て、通れるところを通ればいい。

それが『荘子』のいう「道」なのかもしれません。

2026/10/09

未来を当てるより、分からなくても動じないほうが強い

 



ここ最近、孔子、老子、荘子、仏教、神道と、東洋思想をいろいろ読んでいる。

最初は全部かなり違うものだと思っていた。ところが読んでいくと、意外と同じ場所に戻ってくる。

それは、

「自分で全部をコントロールしようとしない」

ということだった。

孔子から感じたのは、学ぶことは何かの役に立たなくてもいいということ。資格や収入のためでなくても、知らなかったことを知る。それだけで人生は少し豊かになる。

そして中庸。これは単なる「ほどほど」ではなく、一つの正解に固執せず、その場に応じてちょうどいいところを探す感覚に近い。

老子や荘子になると、さらに力が抜ける。

出来事そのものには、最初から「良い」「悪い」と書いてあるわけではない。

雨が降る。予定が変わる。誰かがドタキャン。物事が思い通りにいかない。

まずあるのは事実だけ。

そこに、

「最悪だ」
「困った」
「この先どうなる」

と意味を足しているのは自分の頭だったりする。

もちろん、現実的な問題があれば対処すればいい。でも対処できたなら、それ以上考え続ける必要はない。

ここで役に立つのが、自分なりのコントロールテスト。

これは自分で変えられることか。

変えられるならやる。準備する。対策する。

変えられないなら、そこで手放す。

仏教でいえば執着を減らすこと。神道でいえば散らかった心を今ここに戻すこと。老荘思想でいえば流れに逆らいすぎないこと。

結局かなり近い。

荘子を読んでいて特に面白かったのは、

未来を完璧に読める人になるより、未来が読めなくても平気な人になるほうが強い

という感覚だった。

未来はそもそも固定されていない。

だったら、全部を予測して安心しようとするより、何が来てもそのとき考えればいい。

水みたいに、岩があれば横に流れる。

さらに面白いのは、最後には「道を学んでいる」という意識すら手放していくところ。

「私は執着を手放しています」
「私は悟っています」

と力んだ瞬間、それもまた新しい執着になる。

学んで、考えて、最後には忘れる。

ただ普通に暮らす。

最近の自分なりのまとめは、かなり単純だ。

事実を見る。
自分でできることだけやる。
できないことは手放す。
未来を決めつけない。
今をちゃんと生きる。
興味のあることを学び、楽しむ。

未来を当てることより、

未来が分からなくても動じないこと。

人生を完全にコントロールすることより、

変化に合わせて軽く動けること。

たぶん、このくらいがちょうどいい。

ロゴ決定

ロゴ決定 小川糖尿病内科クリニック

皆さま、こんにちは。 当院のロゴが決定いたしました。 可愛らしいうさぎをモチーフとして、小さなお花をあしらいました。 また、周りは院長の名字である「小川」の「O(オー)」で囲っております。 同時に、世界糖尿病デーのシンボルであるブルーサークルを 意識したロゴとなって...