前回は、荘子のいう「自然」について書きました。
百足は、百本の足を一本ずつ考えながら動かしているわけではありません。蛇も、「次はここに力を入れて、そのあと体をこう曲げて……」なんて考えながら進んでいるわけではない。
それでも、ちゃんと進める。
荘子は、こういう姿を見ながら、
「生き物には、もともと自然に動く力があるんじゃないか」
と考えました。
今回は、その続きです。
頑張らない=自然、ではない
ここで少しややこしい問題が出てきます。
「じゃあ自然に生きるなら、何も頑張らなくていいの?」
という話です。
たとえば自転車。
最初から自然に乗れる子はほとんどいません。
ハンドルを握って、ペダルをこいで、バランスを取って、何度も転ぶ。
かなり不自然です。
ところが練習しているうちに、ある日突然、
「あれ?考えなくても乗れてる」
となる。
右に曲がるときに、
「体を右に3度傾けよう」
なんて考えません。
体が勝手に動きます。
これが、かなり大事なポイントです。
自然とは、最初から何もしないことではなく、最終的に力まなくても動ける状態なのかもしれない。
荘子と禅は、ここが少し違う
荘子は、
「人間はもともと自然に生きる力を持っている。余計なものを減らせばいい」
と考える傾向があります。
考えすぎる。
比べすぎる。
欲張りすぎる。
「こうしなきゃ」と決めすぎる。
そういうものが、本来の自然な動きを邪魔している。
だから、少しずつ手放していけばいい。
一方で、禅には少し違う考え方があります。
座禅をする。
同じ動作を繰り返す。
決められた作法を守る。
一見すると、かなり窮屈です。
でも、それを何度も繰り返しているうちに、最後には作法を意識しなくなる。
つまり、
自然になるために、最初は不自然なくらい練習する。
スポーツや楽器とよく似ています。
ピアノも、最初は指の位置を必死に考えます。
でも上手な人は、いちいち指を考えていません。
音楽を聴きながら、手が自然に動く。
「無為自然」は、寝転ぶことではない
ここで誤解しやすいのが「無為自然」です。
何もしない。
頑張らない。
ずっと寝ている。
という意味ではありません。
むしろ、
必要なときには動く。
必要がなければ無理に動かない。
という感じです。
風が吹けば草は揺れます。
風が止めば、草も止まります。
草は、
「今日は頑張って揺れよう」
とも思わないし、
「絶対に揺れないぞ」
とも思わない。
ただ、そのときの状況に合わせて動いている。
荘子が好きだったのは、たぶんこういう世界です。
頑張りすぎると、逆に動けなくなる
人間は賢いので、つい何でも考えすぎます。
失敗しないように。
嫌われないように。
得するように。
ちゃんと見えるように。
もちろん考えることは大切です。
でも考えすぎると、体まで固くなる。
自転車で、
「転ぶな、転ぶな、絶対転ぶな」
と思っていると、逆にハンドルがガチガチになるようなものです。
だから荘子は、
「もう少し自分の体や感覚を信用してもいいんじゃない?」
と言っているように見えます。
「上手くやろう」を少し減らす
大人になるほど、
「正解は何だろう」
「一番いい方法は何だろう」
と考えるようになります。
でも人生には、答えのないことも多い。
そんなときは、
完璧な答えを探し続けるより、
少し歩いてみる。
疲れたら止まる。
面白そうなら近づく。
違うと思ったら離れる。
それくらいでもいいのかもしれません。
百足は百本の足を管理していません。
蛇も進み方のマニュアルを読んでいません。
それでも、ちゃんと生きています。
自然とは「自分に戻ること」
自然に生きるとは、
何もしないことでも、
努力を全部やめることでもない。
余計な力が抜けて、自分の動きが戻ってくること。
たくさん練習して自然になる人もいる。
考えすぎるのをやめて自然になる人もいる。
たぶん道は一つではありません。
でも最後は、
「考えなくても、これが自分なんだよな」
という場所に近づいていく。
荘子のいう自然は、そんな状態なのだと思います。
風が吹けば揺れる。
晴れたら歩く。
疲れたら休む。
面白ければ近づく。
嫌なら少し離れる。
人生も、本当はそれくらいでいいのかもしれません。