前回、パスカルの「退屈」について考えました。
パスカルは、人間には何もしないで静かにしていることが苦手な性質があると考えました。
暇になると、仕事をする。遊ぶ。人に会う。賭け事をする。何かを追いかける。
なぜなら、静かになると、自分の孤独や不安、老いや死、人生の意味といった、少し重たい問題が見えてくるからです。
だから人は「気晴らし」を求める。
現代なら、SNS、YouTube、ゲーム、買い物、仕事、旅行、投資やトレードなども、その役割を果たすことがあります。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
パスカルが問いかけたのは、
「本当にそれが欲しいのか。それとも、退屈から逃げるために追いかけているだけなのか?」
ということでした。
ウサギが欲しいのではなく、ウサギを追いたい
パスカルの有名なたとえが「ウサギ狩り」です。
もし本当にウサギだけが欲しいなら、誰かが捕まえたウサギをもらえばいい。
でも、それでは面白くない。
自分で山へ入り、探して、追いかけて、捕まえたい。
魚釣りで考えるともっと分かりやすい。
魚が食べたいだけなら、スーパーで買ったほうが早い。
それでも釣りに行く。
なぜなら、
魚そのものだけでなく、「釣っている時間」が欲しいから。
パスカルは、人間の多くの欲望もこれに似ていると考えました。
お金も、出世も、フォロワーも、投資も、場合によっては「獲物」です。
獲物が欲しいというより、
何かを追っている間は退屈しない。
そこが重要です。
では、退屈から逃げてはいけないのか
ここで約300年後、バートランド・ラッセルが登場します。
1930年の『幸福論』の「退屈と興奮」の章で、ラッセルも退屈を重要なテーマとして扱いました。
ただし、パスカルとは少し方向が違います。
パスカルは、
「なぜ人間は退屈から逃げるのか?」
を深く掘りました。
ラッセルはさらに、
「そもそも退屈を全部なくそうとする必要があるのか?」
と考えます。
退屈の反対は「幸福」ではなく「興奮」
これはラッセルを理解するうえで、とても分かりやすい視点です。
退屈すると、人は刺激を求めます。
旅行に行く。
飲みに行く。
遊園地へ行く。
SNSを見る。
株を売買する。
何かが起きると、退屈は消えます。
つまり、
退屈の反対側にあるのは、まず「興奮」です。
でも、興奮と幸福は同じではありません。
刺激には慣れます。
昨日まで楽しかったことが、今日は普通になる。
すると、
もっと強い刺激。
もっと大きな利益。
もっと面白い動画。
もっと豪華な旅行。
と欲しくなる。
これを続けると、普通の日常がどんどん退屈に感じられるようになります。
ラッセルは「退屈に耐える力」を重視した
だからラッセルは、幸福な人生にはある程度の単調さに耐えられる力が必要だと考えました。
これは、
「退屈を我慢して苦しめ」
という話ではありません。
むしろ、
人生から退屈を完全に排除しようとするな
ということです。
ラッセルは、刺激ばかり求める生活を、強い刺激なしでは満足できなくなる状態になぞらえて警戒しています。
少し強い表現を使えば、
刺激にも“耐性”がつく。
いつも強い刺激が必要になると、静かな時間を楽しめなくなってしまう。
だから、何も起きない時間も必要なのです。
種は、毎日掘り返していたら育たない
ラッセルは、子どもの教育についても、ある程度の単調さや静かな時間が必要だと考えました。
植物の種を想像すると分かりやすい。
種は土の中で、しばらく何も起きていないように見えます。
でも、その時間があるから芽が出る。
人間も似ています。
スポーツが上手くなるには、同じ練習を繰り返す。
勉強も、分からない問題を何度も考える。
読書も、すぐに理解できないページにしばらく付き合う。
こういう時間は、派手ではありません。
場合によっては退屈です。
でも、
退屈した瞬間に毎回別の刺激へ逃げていたら、何かを深く育てることができない。
種を植えて、翌日に「まだ芽が出ない」と掘り返しているようなものです。
ただ退屈に耐えるだけではない。「熱意」がある
ここがラッセルの面白いところです。
彼は退屈に耐えることだけを勧めた禁欲的な人ではありません。
『幸福論』では、幸福にとって大切なものとして**「熱意(zest)」**を重視します。
熱意とは、
「もっと知りたい」
「もっとやってみたい」
「これ面白いな」
と、自分から世界へ向かっていく力です。
バスケが上手くなるのが楽しい。
知らなかったことが分かるのが楽しい。
本を読んで、さらに調べたくなる。
料理、園芸、研究、スポーツ、旅行、ものづくり。
対象は何でもいい。
重要なのは、外から刺激を与えられないと動けないのではなく、
自分の中から興味が湧いてくること。
「気晴らし」と「熱意」は少し違う
ここでパスカルとラッセルがきれいにつながります。
パスカルの「気晴らし」は、
退屈から逃げるために、何かを追いかける。
ラッセルの「熱意」は、
対象そのものが面白くて、自分から関わっていく。
外から見ると、どちらも夢中になっています。
でも中身は少し違う。
暇だからYouTubeを延々スクロールするのと、
あるテーマが面白くて、動画を見て、本を読んで、さらに調べるのは同じではありません。
株価が動いているから何となく売買するのと、
経済や金融そのものが面白くて学ぶのも違う。
この区別は、ラッセル自身の言葉そのままではありませんが、『幸福論』全体にある「競争への警戒」「幅広い関心」「熱意」という考え方から見ると、かなり自然です。
「退屈を飼いならす」
だからラッセルの考えを現代風に一言でまとめるなら、
「退屈を飼いならす」
くらいがちょうどいいと思います。
退屈を敵にしない。
かといって、一日中ぼーっとしていろという話でもない。
静かな時間にも耐えられる。
何も起きていない普通の日も味わえる。
そのうえで、
自分が本当に面白いと思うものには熱意を持って関わる。
これがポイントです。
刺激中毒でもない。
無気力でもない。
静けさと熱意の両方を持つ。
パスカルからラッセルへ
二人を並べると、とても分かりやすくなります。
パスカルは、
「なぜ人間は退屈から逃げ続けるのか?」
と問いかけた。
ラッセルは、
「退屈を全部なくそうとしなくていい。静かな時間に耐えられる人ほど、長く続く関心や熱意を持てる」
と考えた。
気晴らしが無限に存在する現代では、この二人の話はむしろ昔以上に身近です。
スマホを開けば、一秒で退屈を消せる。
だからこそ、ときどき退屈を残しておく。
散歩する。
ぼーっとする。
静かに本を読む。
何も予定を入れない。
そして、その静けさの中から自然に出てくる、
「これ、ちょっと面白いな」
を大切にする。
退屈を完全になくすことが幸福なのではない。
退屈に振り回されず、そこから自分の熱意へ戻れること。
パスカルからラッセルへ。
退屈の話を追っていくと、最後はそんなところにたどり着くのかもしれません。