2026/10/01

「欲しい」と「幸せ」は、脳の中では別物だった なぜ手に入れても、また次が欲しくなるのか

 



欲しかったゲームを買った。
ずっと欲しかったスマホに替えた。
テストでいい点を取った。
SNSでたくさん「いいね」がついた。

その瞬間は、うれしい。

ところが数日すると、それが普通になってしまう。

そして、また次のものが欲しくなる。

「せっかく手に入れたのに、なぜ満足が続かないんだろう?」

これは単に「人間が欲深いから」ではありません。

最近の脳科学を見ていくと、そもそも私たちの脳では、

「欲しい」と「好き」は、かなり違う仕組みで動いている

ことが分かってきています。


まず、「ドーパミン=幸せホルモン」は少し違う

ドーパミンという名前を聞いたことがある人は多いと思います。

よく、

「おいしいものを食べるとドーパミンが出て幸せになる」

などと言われます。

でも、これはかなり単純化された説明です。

神経科学者のケント・バーリッジとテリー・ロビンソンは、報酬に関する脳の働きを大きく、

Wanting(ウォンティング)=欲しい、取りに行きたい

と、

Liking(ライキング)=実際に気持ちいい、好き

に分けて考えています。(PubMed Central (PMC))

少し難しいので、コンビニの新作アイスで考えてみましょう。

SNSでそのアイスを見つける。

「めちゃくちゃ食べたい!」

と思う。

コンビニまで買いに行く。

これは主にWantingです。

そして実際に食べて、

「うまい!」

と感じる。

こちらがLikingです。

一見、同じように見えます。

でも脳の中では、この二つは完全に同じものではありません。


「欲しい」は強い。でも「好き」は意外と小さい

バーリッジらの研究では、Wantingには中脳辺縁系のドーパミン系が強く関係しています。

簡単にいえば、

「あれを取りに行け!」

と人を動かすシステムです。

一方、本当に「気持ちいい」「おいしい」と感じるLikingには、脳内の比較的小さな領域である**hedonic hotspot(快楽のホットスポット)**などが関わります。(PubMed Central (PMC))

重要なのは、

Wantingが大きいからといって、Likingまで大きいとは限らない

ということです。

たとえば、

「絶対欲しい!」

と思って買った服なのに、

家に帰って着てみたら、

「まあ、こんなものか」

となることがあります。

ゲームを発売前から楽しみにしていたのに、

実際に始めて数時間すると、

「思っていたほどでもないな」

となることもあります。

つまり、

欲しかった強さ ≠ 手に入れた後の幸福の大きさ

なのです。

これは依存症研究ではさらに分かりやすく現れます。

依存が進むと、「欲しい」というWantingは非常に強くなっているのに、実際に得られる快楽であるLikingは、それほど増えていない、あるいは弱くなっている場合があります。(PubMed Central (PMC))

「好きだからやっている」というより、

「もうそれほど楽しくないのに、やめられない」

という状態です。


ドーパミンは「ご褒美」より「予想とのズレ」に反応する

さらに面白い研究があります。

ケンブリッジ大学の神経科学者ウォルフラム・シュルツは、ドーパミン神経について長年研究してきました。

そこで重要になったのが、

Reward Prediction Error
=報酬予測誤差

という考え方です。(PubMed Central (PMC))

日本語にすると難しそうですが、意味は簡単です。

「思っていたのと、どれくらい違ったか」

です。

たとえば自動販売機でジュースを買ったとします。

普通なら1本出てくる。

ところが、

なぜか2本出てきた。

「えっ、ラッキー!」

となります。

これは予想より良い結果です。

逆に、お金を入れたのに何も出なかった。

これは予想より悪い結果です。

脳はこうした

予想と現実の差

を使って、

「これはまたやった方がいい」

「これはやめた方がいい」

と学習していきます。

ドーパミンは、この学習信号に深く関係しています。(PubMed Central (PMC))

だから、

ドーパミン=快楽そのもの

というより、

「これは重要だ」「次も追いかけろ」「予想を更新しろ」

という信号に近い面があります。


なぜ「たまに当たる」が強烈なのか

ここまで来ると、スマホやゲームがなぜ気になってしまうのかも少し分かります。

スマホを見る。

通知がない。

また見る。

何もない。

次に見る。

好きな人からメッセージが来ていた。

こうした予想できない報酬は、学習システムにとって非常に目立つ出来事です。

毎回必ず同じものが出てくるより、

「今回は何があるだろう?」

という不確実性がある方が、人間の注意を引きつけやすくなります。

ただし、

「SNS企業がドーパミンを直接ハックしている」

などとまで単純化するのは慎重になるべきです。

人間の行動はドーパミン一つだけで説明できるほど簡単ではありません。


ドーパミンは「やる気」にも関係する

もう一つ重要なのが、ジョン・サラモーンらの研究です。

彼らは、

ドーパミンを単なる「報酬物質」と考えるのは単純すぎる

と指摘しています。(PubMed)

ドーパミン系は、

「それが好きか」

だけではなく、

「そこまで頑張って取りに行くか」

にも関係します。

たとえば、

目の前に小さなお菓子がある。

一方、階段を100段登れば高級ケーキがある。

どちらを選ぶか。

ここでは、

「ケーキが好きかどうか」

だけではありません。

どのくらい努力を払う価値があると思うか

も重要です。

実験でも、ドーパミン系は努力量や行動の活性化、課題を続けることなどに関係することが示されています。(PubMed Central (PMC))

つまりドーパミンとは、

「幸せ!」

という物質というより、

「動け」「追え」「頑張れ」

側にかなり深く関わる物質なのです。


それなら、なぜ成功してもすぐ普通になるのか

もう一つ、この話とつながる心理学があります。

Hedonic Adaptation
(快楽順応)

です。

日本語にすると難しいですが、

「良いことにも慣れてしまう」

という意味です。

新しいスマホ。

合格。

昇給。

新しい家。

恋人ができる。

最初はうれしい。

ところが、人間は少しずつ新しい状態に慣れていきます。

SheldonとLyubomirskyの研究では、良い変化による幸福感が時間とともに弱まっていく一つの理由として、

その状態が普通になること

に加えて、

「もっと上」を望み始めること

も挙げられています。(Sage Journals)

たとえば、

「テストで80点取れれば十分」

と思っていた。

80点を取った。

うれしい。

しばらくすると、

「次は90点欲しい」

になる。

90点を取る。

今度は、

「100点を取った人がいる」

となる。

ゴールが逃げていくわけです。


「もっと」は、自動的に終わらない

ここまでの研究をまとめると、とても興味深い構図になります。

脳には、

「次へ行け」

という強力な仕組みがあります。

しかし、

「ここで十分だよ」

という仕組みは、それほど強くありません。

これは進化の観点から考えれば理解しやすい話ではあります。

食べ物を手に入れて、

「一生これで満足です」

と動かなくなる動物より、

また食料を探す動物の方が生き残りやすかった可能性があります。

ただし、

「脳は幸福になれないよう進化した」

とまで言うのは科学的には言い過ぎです。

これは研究から直接証明された事実ではなく、進化論的な説明の一つです。

ここは分けて考える必要があります。


現代社会ではWantingが暴走しやすい

昔、人間が追いかけていたものは、

食料、

安全な場所、

仲間、

配偶者、

といったものが中心でした。

ところが現代では、

Wantingを刺激するものが大量にあります。

新商品。

動画。

ゲーム。

ランキング。

フォロワー数。

「いいね」。

収入。

偏差値。

ブランド品。

投資資産。

再生回数。

しかも多くの場合、

数字で比較できます。

100より200。

1万より10万。

1000万円より2000万円。

数字には上限がありません。

だから、

Wantingのゲームにはゴールを設定しない限り、終点がありません。


SNSは「使うだけで不幸になる」わけではない

ただし、ここも注意が必要です。

「SNS=悪」

と単純化するのも科学的ではありません。

2024年のメタ解析では、単純な「SNSをどれだけ使ったか」だけでは、主観的幸福との関係は一貫していませんでした。むしろ、社会的支援や自尊心などの方が幸福との関係が強く出ています。(PubMed Central (PMC))

つまり、

SNSを何分使ったかだけでは足りない。

大事なのは、

そこで何をしているか

です。

特に問題になりやすいのが、

上方比較

です。

「自分より頭がいい人」

「自分よりお金がある人」

「自分より楽しそうな人」

ばかりを見ることです。

高校生を対象にした研究でも、SNS上で自分より良い状態に見える人と比較した瞬間には、自尊心が低くなる傾向がみられました。(PubMed Central (PMC))

SNSには世界中の「上」が無限に出てきます。

だから比較を始めると、

Enoughが非常に難しくなる環境

でもあります。


では、どうすればいいのか

ここで、

「じゃあドーパミンを出さなければいい」

とはなりません。

ドーパミンは悪者ではありません。

勉強する。

スポーツをする。

好きな人に会いに行く。

新しいことを学ぶ。

夢を追う。

こうした行動にも、動機づけの仕組みは必要です。

問題はWantingそのものではありません。

Wantingだけで人生を作ってしまうこと

です。

だから一つの方法は、

「何をもっと手に入れるか」

だけではなく、

「今あるものを、実際にどれだけ楽しんでいるか」

を見ることです。


「欲しいものリスト」だけでなく「好きなことリスト」を作る

たとえば、

「いつか欲しいもの」

を書くのは簡単です。

新しいスマホ。

車。

旅行。

資格。

お金。

でも、もう一つ質問してみます。

最近、実際にやっていて気持ちよかったことは何だろう?

友達と話した。

犬と散歩した。

風呂に入った。

音楽を聴いた。

漫画を読んだ。

家族でご飯を食べた。

昼寝した。

こういうものには、

ランキングも、

偏差値も、

フォロワー数もありません。

でも、Likingという意味では、こちらの方が人生にとって重要かもしれません。


「慣れ」を少し遅らせる方法もある

先ほどの快楽順応の研究には、興味深いヒントがあります。

SheldonとLyubomirskyは、良い変化への慣れを遅らせるものとして、

感謝・再評価すること

と、

体験に変化を持たせること

を挙げています。(Sage Journals)

たとえば旅行でも、

毎週高級ホテルへ行けば、それが普通になってしまうかもしれません。

一方、

近所を散歩する。

公園へ行く。

たまに温泉へ行く。

知らない店で昼ご飯を食べる。

というように変化があれば、それぞれを感じやすくなります。

「もっと強い刺激を追加する」

だけが幸福を増やす方法ではないのです。


幸せを「目的地」にしすぎない

ここから先は、研究結果そのものではなく、そこから私が導く一つの考え方です。

「幸せになりたい」

と思うこと自体は自然です。

でも、

幸福を数字のように最大化し始めると、幸福そのものまでWantingの対象になってしまう

可能性があります。

「もっと幸せにならなければ」

「去年より充実していなければ」

「他人よりいい人生でなければ」

となれば、

また比較が始まります。

それよりも、

自分が好きな生活の条件を整える。

よく眠る。

好きな人と過ごす。

嫌なことを減らす。

体を動かす。

面白いことをする。

余白を作る。

その結果として、

「今日、悪くなかったな」

と思えればいい。

そんな考え方の方が、脳の仕組みとは相性がいいのかもしれません。


「もっと」は脳が作る。「十分」は自分で決める

Wantingは、人間を前へ進ませてきました。

その力があったから、

食べ物を探し、

新しい土地へ行き、

道具を作り、

勉強し、

社会を発展させてきたのでしょう。

だからWantingは悪ではありません。

ただ、現代ではその仕組みを刺激するものが多すぎます。

そして脳は必ずしも、

「もう十分です」

とは言ってくれません。

だから最後の線だけは、自分で引く必要があります。

「もっと欲しい」は脳から自然に出てくる。
「これで十分」は、自分で決める。

幸せとは、欲しいものをすべて手に入れることではなく、

すでに自分が好きだったものを、ちゃんと好きだと感じられる余白を残しておくこと

なのかもしれません。


この記事で押さえておきたいこと

  • ドーパミンを「幸せホルモン」と呼ぶのは正確ではない。

  • Wanting(欲しい)とLiking(好き・快楽)は区別でき、ドーパミンは特に動機づけやWantingに重要。(PubMed Central (PMC))

  • ドーパミンは「予想より良かった/悪かった」という報酬予測誤差にも重要。(PubMed Central (PMC))

  • 良い出来事にも人間は慣れる。さらに「もっと上」を望み始めることもある。(Sage Journals)

  • SNSそのものが必ず幸福を下げるとは言えない。ただし、他人との上方比較には注意が必要。(PubMed Central (PMC))

  • 「脳は人間を不幸にするよう設計されている」は、面白い比喩ではあるが、科学的に確立した事実ではない。


2026/09/30

他人は変えなくていい。自分の舵だけ持てばいい

 



最近『自省録』を読んでいると、結局ずっと同じところに戻ってくる。

他人をどうにかしようとするな。
自分をどうするかだけ考えろ。

これに尽きる気がする。

人間関係でイライラする。

誰かに批判される。

思った通りに動いてくれない。

仕事でトラブルが起きる。

そうすると、つい頭の中が全部「相手」に持っていかれる。

「あいつは何を考えているんだ」

「なんでそんなことをするんだ」

「どうしたら分からせられるんだ」

でも、よく考えれば、これ全部ほとんど自分ではコントロールできない。

そして、コントロールできないものをコントロールしようとするから疲れる。


他人の評価に、自分の幸福を預けない

人間は不思議なもので、自分のことを一番長く見ているのは自分なのに、たった一人の他人の評価をものすごく重く受け止めたりする。

褒められたら安心する。

批判されたら落ち込む。

嫌われたら、「自分が間違っているのでは」と思う。

でも、その人が見ているのは、自分の人生のほんの一部分でしかない。

結局、他人の評価はその人自身の価値観を通した「切り抜き」なのだ。

だから、

他人の評価は参考資料。
最終決定権は自分。

くらいでいい。

もちろん、批判の中に事実や改善点があれば拾えばいい。

でも、

「この人が怒っているから、自分は悪い人間だ」

まで行く必要はない。


他人は「そういう人」なのだ

これも大きい。

世の中には、自分とは全然違う人がいる。

考え方も違う。

価値観も違う。

行動も違う。

なのに、

「普通こうするだろ」

「なんで分からないんだ」

「こういう人間になってほしい」

と思う。

でも、イチジクの木に向かって、

「牛乳を出せ」

と言っても意味がない。

イチジクはイチジクだからだ。

人間も同じで、

そういう人は、そういう人。

そこにいちいち善悪判定を入れすぎるから、腹が立つ。

「なるほど。この人はこういう反応をする人なんだな」

くらいに観察できれば、かなり楽になる。


怒っても相手は変わらない

これは本当にそうだと思う。

誰かに腹が立つ。

怒る。

頭の中でもう一度怒る。

翌日も思い出して怒る。

でも、

それで相手は変わったのか?

だいたい変わっていない。

つまり怒りの多くは、相手を変える道具になっていない。

ただ自分の時間と神経を消費している。

怒りが出ること自体は仕方ない。

人間だから。

問題はその後だ。

怒りを爆発させるのか。
それとも、一度観察するのか。

「今、ワシは何に反応した?」

「これは自分で変えられることか?」

「この人を怒って変えられるのか?」

そう考えるだけでも、かなり違う。


苦痛は、頭の中で増やさない

ストア派を読んでいて面白かったのがこれ。

現実の苦痛と、頭の中で作った苦痛は別物だという話。

例えば嫌なことが一つ起きた。

そこで、

「もう最悪だ」

「この先ずっとこうなる」

「また起きるに違いない」

「なんで自分だけこんな目に」

と考え始める。

すると最初は1だった苦痛が、頭の中で10になる。

現実の問題に、

想像・反芻・予測

を上乗せしている。

だからまず事実だけを見る。

「何が起きた?」

「今、自分に何ができる?」

それだけでいい。

苦痛そのものより、

苦痛について考え続けることのほうが苦しいこともある。


コントロールできること、できないこと

今日読んだ中で、結局ここが一番大事だった。

何か問題が起きたとき、

自分で変えられるなら変える。

原因を修正する。

行動する。

でも変えられないなら、

そこで延々と誰かを責めても意味がない。

自分で直せるなら直す。
直せないなら手放す。

原子まで遡って犯人探しをしても仕方ない。

誰が悪かった。

なぜこうなった。

あの人のせいだ。

もちろん原因分析が必要なことはある。

でも、原因分析と恨み続けることは別だ。

目的は、

問題を解決すること。

犯人を作ることではない。


本当の強さとは何か

以前は、怒る人のほうが強く見えることがあった。

声を荒らげる。

相手を言い負かす。

自分の意見を押し通す。

でもストア派的には、むしろ逆なのかもしれない。

怒りに支配されている時点で、

自分の心のハンドルを怒りに渡している。

本当のセルフコントロールは、

何も感じなくなることではない。

イライラしてもいい。

傷ついてもいい。

腹が立ってもいい。

それでも、

「さて、ワシはどう行動するか」

を自分で決める。

これが強さなのだと思う。


他人をコントロールしない。他人にもコントロールされない

今日の『自省録』を一言にまとめるなら、これが一番しっくりくる。

他人をコントロールしない。
そして、他人にも自分をコントロールさせない。

相手が何を言うか。

どう思うか。

どう評価するか。

どう行動するか。

それは相手の領域。

一方で、

自分が何を考えるか。

何に注意を向けるか。

どう反応するか。

今日何をするか。

ここは自分の領域。

境界線はここにある。


他人の人生ではなく、自分の人生に戻る

人のことを考えすぎると、かなりの時間を使う。

「あの人はなぜあんなことをしたんだ」

「この人はどう思っているんだ」

「あの人からどう見られているんだ」

でも、その間ずっと、

自分の人生から離れている。

自分には何をしたいのか。

今日は何を楽しみたいのか。

誰と時間を過ごしたいのか。

何を学びたいのか。

何をやめたいのか。

そっちのほうがよほど重要だ。

人生は一回しかない。

他人の頭の中を推理しているうちに、自分の人生が終わってしまったら本末転倒である。


最近考えている「生きがい」ともつながる

これは最近考えている生きがいの話にもそのままつながる。

100億円あってもやりたいこと。

誰にも褒められなくてもやること。

お金にならなくても、その時間自体が好きなこと。

そういうものを大切にするには、

他人の評価から少し離れる必要がある。

「それ何の役に立つの?」

「そんなことして何になるの?」

と言われても、

「知らん。でもワシは好きなんだ」

くらいでいい。

成功や収益はオプション。

評価もオプション。

本体は、

自分がその時間を生きたいかどうか。


最後に


他人は他人。
自分は自分。

他人を変えようとしない。

他人の評価に幸福を預けない。

苦痛を想像で増やさない。

怒っても、自分の舵は離さない。

変えられるものだけ変える。

変えられないものは流す。

そして最後は、

自分の人生に戻る。

これでいい。

もっと簡単に言えば、

ジャッジしない。
観察する。
必要なことだけやる。
あとは流す。

そして余った時間を、

自分の生きがいに使う。

たぶん、それが一番もったいなくない生き方なんだと思う。

The View from Nowhere Marcus Aurelius and the Art of Stepping Back

 



Recently, while reading Marcus Aurelius’ Meditations, I came across an idea that caught my attention:

Live as though you were alone on a mountaintop.

It reminded me of a very different philosopher: Thomas Nagel, and his book The View from Nowhere.

Nagel and Marcus Aurelius were separated by almost two thousand years, and they were doing very different kinds of philosophy.

Nagel, a modern analytic philosopher, was interested in a fundamental problem: human beings experience the world from a personal point of view, yet we are also capable of stepping outside that perspective and seeing ourselves more objectively.

Marcus Aurelius was less interested in constructing a philosophical theory. He was trying to live philosophy.

But reading them together reveals an interesting connection.

Both, in very different ways, ask us to do something unusual:

Step outside yourself for a moment.

Two Ways of Seeing the Same Event

Imagine that someone criticizes me.

From inside my own head, the event immediately feels personal.

“He insulted me.”

“He misunderstands me.”

“This is unfair.”

“What will other people think?”

That is the world from my point of view.

And there is nothing strange about it. Human beings naturally experience life this way.

But we have another ability.

We can mentally move the camera.

Instead of saying:

“I was criticized.”

I can describe the same event as:

“One person said something negative about another person.”

Move the camera farther away:

“Two human beings had a disagreement.”

Farther still:

“On a planet containing billions of people, one person briefly disliked what another person did.”

Nothing about the event itself has changed.

Only the point of view has changed.

And yet the emotional weight of the event can change dramatically.

That movement is close to what fascinates Nagel.

We normally experience ourselves as the center of our own world.

But intellectually, we know that we are not the center.

I am simply one person among billions.

My perspective is real, but it is not the only perspective.

Marcus Aurelius Was Constantly Moving the Camera

Marcus Aurelius seems to perform a similar mental exercise throughout Meditations.

When something bothers him, he repeatedly tries to strip away the story surrounding it.

What actually happened?

What part of my suffering comes from the event itself?

And what part comes from the judgment I added afterward?

He also deliberately expands his perspective.

Think about the enormous scale of time.

Think about generations of people who lived before us and disappeared.

Think about the vastness of nature.

Think about how quickly fame, anger, status, and reputation are forgotten.

From inside everyday life, these things feel enormous.

From farther away, they shrink.

This is why the image of the mountaintop is so powerful.

Down in the town, you hear everything.

Praise.

Criticism.

Competition.

Gossip.

Status.

Reputation.

But climb high enough, and the noise becomes faint.

The town has not disappeared.

You have simply gained distance from it.

Reputation Looks Different from Far Away

Reputation is a good example.

Someone praises me.

My reputation rises.

Someone criticizes me.

My reputation falls.

From the first-person perspective, both can feel very important.

But zoom out.

What is reputation, really?

It is a collection of thoughts inside other people’s minds.

Those thoughts change.

The people themselves change.

Eventually, both they and I disappear.

Marcus Aurelius returns to this point again and again.

The people who praise you will die.

The people who criticize you will die.

You will die.

Even the memory of the argument will disappear.

This does not mean that reputation is completely irrelevant.

If I behave badly, criticism may contain useful information.

If I make a mistake, I should correct it.

But there is a difference between:

“Someone thinks I did something wrong.”

and:

“My value as a person has fallen.”

The first is an event.

The second is a judgment.

The mind often combines them so quickly that we do not notice the difference.

The Stone Does Not Know It Is Falling

Marcus Aurelius uses another striking image.

A stone is thrown upward.

Then it falls.

For the stone, rising is not success.

Falling is not failure.

Those are human judgments placed on top of physical movement.

The stone simply moves.

Human life is obviously more complicated than a stone.

But the analogy is useful.

A reputation rises.

A reputation falls.

A business grows.

A business shrinks.

Someone approves of us.

Someone changes their mind.

The event happens first.

Then we add:

Good.

Bad.

Victory.

Failure.

Humiliation.

Success.

Some judgments are necessary.

But many are optional.

That is one of the most practical lessons I take from Marcus Aurelius.

The View from Nowhere Is Not Really Nowhere

Nagel’s title is deliberately strange.

There is, of course, no literal place called “nowhere” from which a human being can see the world with perfect objectivity.

We always begin somewhere.

Inside a particular body.

With a particular history.

At a particular moment.

But we can try to loosen the grip of that position.

We can ask:

What would this look like if it were happening to someone else?

What would this look like five years from now?

What would this look like from the perspective of an entire lifetime?

What would this look like from far above?

Each step creates distance between the event and our immediate reaction to it.

That distance can be surprisingly useful.

The Goal Is Not to Stop Caring

There is an important limit to all of this.

If we zoom out too far, we can easily conclude:

Everything is tiny.

Everyone dies.

Nothing matters.

But that is not the lesson I take from either philosopher.

The point is not to erase the first-person view.

I still live from here.

My family matters to me.

Pain still hurts.

Food still tastes good.

A beautiful landscape can still move me.

What changes is that I no longer have to treat every temporary disturbance as if it were the whole universe.

A criticism can hurt without becoming a catastrophe.

A failure can matter without defining an entire life.

A bad day can simply be a bad day.

Sometimes the first-person camera is too close.

Marcus Aurelius reminds me to climb the mountain.

Nagel reminds me that another perspective is always possible.

And perhaps that is the useful combination.

When something feels overwhelmingly large, move the camera.

Look at yourself as one person among many.

Look at the event as one moment among millions of moments.

Look at your life as one small life inside a much larger world.

Then ask again:

How big is this really?

Very often, the answer changes.


2026/09/29

「役に立たなくてもいい」――無用の用から考える、生きがいとこれからの人生

 




「無用の用」

一見すると、役に立たないものにも意味がある。

いや、もう少し踏み込めば、

役に立たないように見えるものの中にこそ、まだ名前のついていない価値が隠れている。

そんな言葉だ。

今の社会は、とにかく「役に立つこと」が好きだ。

仕事なら売上。
学校なら成績。
SNSならフォロワーや「いいね」。
運動なら歩数や体重。
読書なら読んだ冊数。
趣味ですら、資格や収益化につなげたくなる。

何かを始めると、すぐにこう考える。

「それ、何の役に立つの?」

でも最近、この問いそのものが、少し窮屈なのではないかと思うようになった。


ノーベル賞につながった「役に立たない穴」

「無用の用」を研究人生の重要な言葉として語っているのが、京都大学の北川進先生だ。

北川先生は、金属イオンと有機分子を組み合わせて内部に無数の小さな空間を持つ**MOF(金属有機構造体)**の研究で、2025年のノーベル化学賞を受賞した。ノーベル賞

この研究の面白いところは、まさに「穴」にある。

普通、材料をつくるなら、ぎっしり詰まっていた方が丈夫そうに思える。

穴なんてない方がいい。

ところが北川先生は、その「何もない空間」に注目した。

もともとは磁性体や電導体をつくろうとしていたが、思うようなものができなかった。そこで、邪魔だと思われていた隙間を「失敗」と見るのではなく、この空間そのものを使えないかと発想を変えたという。Enago

すると、その穴の中に気体分子を入れたり、取り出したりできることが分かってきた。

現在ではMOFは、二酸化炭素の回収、水の捕集、ガスの貯蔵、化学反応などへの応用が研究されている。ノーベル財団も、MOFの大きな可能性としてこうした用途を挙げている。ノーベル賞

つまり、

「邪魔な隙間」だったものが、「機能のある空間」に変わった。

北川先生自身も、「穴」を役に立たないものと決めつけず、見方を変えることが「無用の用」だと語っている。ログミー

この話は、科学だけの話ではないと思う。

人生にも、よく似た「穴」がある。


人生にも「役に立たない時間」がある

ぼーっとする。

散歩する。

漫画を読む。

ゲームをする。

知らない街を歩く。

温泉に入る。

子どもとくだらない話をする。

興味の赴くまま本を読む。

一見すると、何も生産していない。

履歴書にも書けない。

お金にもならない。

社会的な評価も増えない。

でも、そういう時間のあとに、

「ああ、今日は良かったな」

と思うことがある。

逆に、一日中ものすごく生産的に働いて、数字も出して、人にも評価されたのに、

「何か疲れたな」

しか残らない日もある。

ここに面白い逆転がある。

社会的には「有用」な一日が、自分にとっては空虚であることがある。

そして、

社会的には「無用」な一日が、自分にとっては豊かであることがある。


大人になると「存在」より「機能」で評価される

子どもを見ていると、もっと単純だ。

石を拾って喜ぶ。

虫を追いかける。

意味もなく走る。

同じ遊びを何度もする。

「それをやって将来どうなるの?」

なんて考えていない。

ただ面白いからやる。

ただそこにいるだけで、周囲から存在を喜ばれる。

ところが大人になるにつれて、

「何ができるか」

「どれだけ稼ぐか」

「どれだけ成果を出したか」

「どれだけ役に立つか」

で測られることが増えていく。

もちろん、社会を動かすにはある程度必要だ。

問題は、その物差しを自分自身にまで24時間向けてしまうことだと思う。

仕事ができない自分には価値がない。

成果を出せない自分には価値がない。

何もしていない時間は無駄だ。

そうなると、人間はいつの間にか自分自身を「道具」として扱い始める。

これが行き過ぎれば、疲れるのは当然だ。


生きがいは「役に立つこと」とは少し違う

動画の中では、生きがいについてこんな5つの要素が紹介されていた。

小さな喜び、小さく始めること、今ここにいること、自分を解放すること、そして調和と持続可能性。

どれも、巨大な成功とは関係がない。

むしろ逆だ。

朝のコーヒーがおいしい。

少し歩く。

好きな本を読む。

誰にも評価されないことをやってみる。

家族と食卓を囲む。

一人で静かに過ごす。

そうした小さな時間の集合で人生はできている。

生きがいというと、つい、

「人生を懸けられる巨大な使命を見つけなければ」

と思ってしまう。

でも、そんな大げさなものではなくてもいいのかもしれない。

自分の中で、少し生命が動くもの。

それで十分なのだと思う。


「何者でもない自分」を残しておく

大人になると、いろいろな服を着る。

会社員。

医師。

経営者。

親。

夫婦。

専門家。

管理職。

どれも社会生活には必要な役割だ。

でも、それは自分そのものではない。

モンテーニュ風に言えば、社会の中で着ている「衣服」に近い。

役割を全部脱いだあと、

「では自分は何が好きなのか」

と聞かれて、答えられなくなることがある。

だから時々、

何者でもない時間

が必要なのだと思う。

役に立たなくていい。

成果を出さなくていい。

誰にも見せなくていい。

ただ面白い。

ただ好き。

ただ心地いい。

そういう部分を完全に消してしまわない。

これは怠けではなく、むしろ自分を守るための余白なのかもしれない。


「歴史の終わり幻想」にも注意したい

もう一つ面白い考え方がある。

人間は、

「昔の自分はかなり変わった」

とは思えるのに、

「これからの自分もかなり変わる」

とはなかなか思えない。

心理学ではこれを**「歴史の終わり幻想」**と呼ぶ。

40歳になると、

「自分はこういう人間だ」

と思う。

50歳になると、

「もう今さら変わらない」

と思う。

しかし脳には可塑性がある。

新しい経験をすれば、新しい回路が使われる。

繰り返せば、その回路が少しずつ使いやすくなる。

だから、

今の自分は完成品ではない。

以前は競争が好きだった人が、静けさを好きになるかもしれない。

仕事中心だった人が、家族との時間を一番大切にするようになるかもしれない。

逆に、のんびり生きていた人が、50歳から何かに猛烈に夢中になることもある。

人間は変わる。

だから、

「昔の自分はこうだった」

という事実を、

「これからもこうでなければならない」

という契約にする必要はない。


過去を否定する必要もない

ここも大事だと思う。

価値観が変わると、

「あの頃は間違っていた」

と思いたくなる。

でも、そんな必要もない。

その時には、その「神」が必要だったのだ。

成績。

仕事。

肩書。

お金。

評価。

成功。

それらを追いかけたからこそ、見えたものもある。

やり切ったから、

「これは自分にとって一番ではなかった」

と分かることもある。

遠回りだったとしても、

遠回りしたから分かった景色がある。

だから過去は否定するのではなく、

卒業すればいい。


北川先生の「穴」は、人生の余白にも似ている

MOFの話に戻る。

材料の中に「空間」がある。

普通なら、

何もない。

無駄。

弱点。

そう見える。

しかし、その空間があるからこそ、分子が入れる。

変化できる。

新しい機能が生まれる。

人生も同じかもしれない。

予定をびっしり埋める。

仕事をびっしり入れる。

情報をびっしり詰める。

目標をびっしり置く。

それでは、新しい何かが入ってくる「穴」がない。

だから、

余白は欠陥ではない。

何もしていない時間。

次を決めていない期間。

迷っている時間。

ぼんやりしている時間。

それらは外から見ると「無用」に見える。

でも、その空間があるから、

新しい本が入ってくる。

新しい人と出会う。

新しい趣味を始める。

新しい自分が出てくる。

北川先生が「空間は機能の宝庫」と捉えたように、人生の余白もまた、まだ使われていない可能性の場所なのかもしれない。KURENAI


「何の役に立つの?」を少し減らしてみる

これから何かを始めるとき、

すぐに、

「意味があるか?」

「得になるか?」

「収益化できるか?」

「将来につながるか?」

と考えなくてもいい。

代わりに、

「面白いか?」

と聞いてみる。

あるいは、

「なぜか気になるか?」

でもいい。

役に立つかどうかは、ずっと後にならないと分からないことも多い。

北川先生の研究も、もともとは狙って現在のMOF産業を作ろうとして始まったわけではなかった。思うような磁性体や電導体にならなかった材料を、別の視点から見直したところから道が開けている。Enago

人生も似たものなのだと思う。


人間そのものにも「無用の用」がある

最終的には、ここに戻ってくる。

人間は、

役に立つから価値があるのではない。

稼ぐから価値があるのでもない。

成果を出すから価値があるのでもない。

もちろん仕事では役割がある。

社会では責任もある。

でも、それが人間の価値のすべてではない。

役に立たない時間。

役に立たない遊び。

役に立たない好奇心。

役に立たない遠回り。

役に立たない自分。

その中にこそ、

「生きている感じ」

が残っていることがある。

だから時々、

何の役にも立たないことをしてみる。

ただ歩く。

ただ読む。

ただ遊ぶ。

ただ家族といる。

ただぼんやりする。

そして、

「これ、何の役に立つんだろう?」

と思ったら、

少しだけこう考えてみる。

役に立たなくても、別にいいじゃないか。

むしろ、

まだ役割が決まっていないからこそ、そこには可能性がある。

北川先生の「穴」と同じだ。

何もない空間は、

空っぽなのではない。

何かが入ってこられる場所なのである。

そして人生の後半には、そんな「穴」を少し多めに残しておくくらいが、ちょうどいいのかもしれない。

人は何歳からでも変われるのか? ――「ヘブ則」と脳の可塑性から考える、“自分はこういう人間だ”という思い込み

 



「自分は昔からこういう性格だから」

「もう40代、50代だから変わらない」

「今さら新しいことを始めても遅い」

そんなふうに、自分を完成品のように考えてしまうことがある。

でも脳科学から見ると、人間の脳はそれほど固定されたものではない。

もちろん、何歳になっても子どもの脳と同じように自由自在に変わるわけではない。けれど成人した脳にも、経験や学習によって機能や構造を変えていく能力が残っている。

これを**神経可塑性(neuroplasticity)**という。成人の脳でも、経験や学習に伴ってシナプスの強さや構造が変化することは、多くの研究で示されている。Nature

そして、この仕組みを理解するうえで重要なのが**「ヘブ則」**である。


ヘブ則とは何か

1949年、心理学者ドナルド・ヘブは、学習によって神経細胞同士の結びつきが強くなる仕組みについて重要な仮説を提示した。

後にこれを分かりやすく表現した有名な言葉がある。

“Neurons that fire together, wire together.”

「一緒に活動する神経細胞は、結びつきが強くなる」

という意味だ。

これはヘブ本人の原文そのものではなく、後世につくられた有名な要約表現だが、ヘブ則の核心をよく表している。

たとえば神経細胞Aが活動すると、いつも続いて神経細胞Bも活動する。

これを何度も繰り返していると、AからBへの信号が通りやすくなる。

つまり、

繰り返し使われる神経回路は、次第に使いやすくなる。

これが学習や習慣、記憶を理解する基本的な考え方の一つである。


脳の中では何が起きているのか

神経細胞同士は直接くっついているわけではない。

その間にはシナプスという接続部分がある。

学習すると、このシナプスで情報が伝わる効率が変化する。

代表的なのが**長期増強(LTP:Long-Term Potentiation)**だ。

ある神経回路が一定の条件で繰り返し活動すると、そのシナプスで次回以降の信号が伝わりやすくなる。

分子レベルでは、グルタミン酸、NMDA受容体、カルシウム、AMPA受容体などが関与し、シナプス伝達の効率が変化していく。

逆に、使われ方によっては結合が弱くなる**長期抑圧(LTD)**も存在する。

つまり脳は単純に、

「使えば全部強くなる」

のではない。

必要な回路を強化し、別の回路を弱めながら、ネットワークを調整している。

さらに、一部のシナプスでは樹状突起スパインなどの微細構造そのものが形成・消失・安定化することも分かっている。経験によるこうした構造変化は、成人の脳でも観察されている。Nature


脳は「道路」に似ている

脳の回路を道路にたとえると分かりやすい。

最初は草むらしかない場所を歩く。

一度通っただけでは、翌日にはほとんど元通りだ。

ところが毎日同じ場所を歩けば、

草が倒れ、

道ができ、

やがて舗装される。

すると意識しなくてもそこを通るようになる。

習慣も似ている。

たとえば、

嫌なことが起こる
→ すぐ腹を立てる
→ 頭の中で何度も考える
→ また腹を立てる

これを何年も繰り返していれば、その反応はどんどん自動化される。

逆に、

嫌なことが起こる
→ 一度止まる
→ 「今、自分は怒っているな」と観察する
→ 必要なことだけ対応する
→ 別のことへ戻る

という行動を繰り返せば、別の反応パターンを学習していくことは可能だ。

ここで重要なのは、

「怒らない人になる」と決心することではない。

新しい反応を、実際に何度も使うことである。


「性格だから仕方ない」は少し違う

もちろん人間の性格を、単純に「神経回路だけ」で説明することはできない。

遺伝、幼少期の経験、環境、身体、文化、人間関係など、非常に多くの要因が絡んでいる。

それでも、

「今までこうだったから、これからも必ずこうだ」

とは限らない。

成人の脳にも経験依存性の可塑性は存在する。新しい技能や環境、学習によって脳機能や神経回路が変化し得ることは研究から支持されている。PubMed

だから、

「私はこういう人間だ」

という言葉は、

最終診断というより、現在までの自分についての暫定報告

くらいに考えた方がいいのかもしれない。


感情が強い経験は、なぜ記憶に残るのか

「頭では分かったけれど、腑に落ちない」

ということがある。

逆に、ある体験をした瞬間、

「なるほど、そういうことだったのか」

と世界の見え方が一気に変わることもある。

感情を伴う出来事では、扁桃体や海馬、さまざまな神経伝達物質・神経調節物質が関与し、記憶の固定や注意に影響する。

だから、感情を伴った経験が学習を強くすることはある。

ただし、ここは注意が必要だ。

「強烈な感情を味わえば、一瞬で脳を書き換えられる」わけではない。

強いストレスや恐怖もまた学習される。

つまり可塑性そのものには善悪がない。

良い習慣も学習するし、悪い習慣も学習する。

不安を何度も反芻すれば、そのパターンも強化され得る。

だから重要なのは、

何を繰り返しているか。

である。


脳の可塑性は「何でも可能」という意味ではない

ここも誤解しやすい。

神経可塑性という言葉は、ときどき自己啓発で、

「脳は何歳からでも自由自在に変えられる」

と強調されすぎる。

実際にはもっと地味だ。

成人の脳にも可塑性はあるが、発達期と同じではない。回路や領域によって変化しやすさも違うし、年齢、睡眠、身体状態、注意、学習内容などにも左右される。成人の可塑性には十分な証拠がある一方、人間のMRIで観察された短期間の「構造変化」については測定上の限界も指摘されている。PubMed Central (PMC)

最近の研究では、条件によっては数時間という短い時間スケールでもMRI上の変化が検出される可能性が報告されているが、それをそのまま「人生観が一瞬で物理的に書き換わった」と解釈するのは飛躍がある。PubMed

だから、

脳は変わる。だが魔法ではない。

これくらいがちょうどいい。


では、新しい回路を作るにはどうすればいいのか

一番大切なのは、巨大な決意ではない。

小さな行動を繰り返すこと。

「明日から性格を変える」

では難しい。

そうではなく、

怒ったときに10秒待つ。
スマホを見る前に外を5分歩く。
毎日10分だけ読む。
嫌なことが起こったら、まず観察する。
週に一度、新しい場所へ行く。

そういう小さな経験を積む。

大まかに言えば、

経験 → 神経活動 → シナプス変化 → 行動が少し容易になる → また経験する

という循環が生まれる。

繰り返すほど、

「頑張ってやっている行動」が、

少しずつ

「普通にやる行動」

へ変わっていく。

これが習慣化の神経科学的な背景の一つである。


「歴史の終わり幻想」という面白い話

心理学には**End of History Illusion(歴史の終わり幻想)**と呼ばれる現象がある。

人間は、

「昔の自分はずいぶん変わった」

とは認識できるのに、

「これからの自分も大きく変わる」

ということを過小評価しやすい。

つまり、

過去10年で自分は変わったのに、なぜか今の自分を完成形だと思ってしまう。

脳の可塑性とは別の心理学的概念だが、両者を一緒に考えると面白い。

私たちは、

「自分はこういう人だから」

という物語を作る。

その物語に従って同じ行動を続ける。

すると同じ神経回路を繰り返し使う。

結果として、本当に「そういう自分」が強化されていく。

逆に、

「まだ自分は変わるかもしれない」

と思って新しい経験を入れれば、新しい学習が始まる。


過去の自分は「履歴」であって「設計図」ではない

これが僕には一番面白いところだ。

人間は過去の延長線上だけを生きなくてもいい。

以前好きだったものが、今は好きではなくてもいい。

昔大切だった目標が、今は大切ではなくてもいい。

仕事に夢中だった人が、自然に夢中になってもいい。

競争が好きだった人が、静かな生活を好きになってもいい。

逆もある。

大事なのは、

昔の自分との整合性を保つことではない。

現在の自分が何に反応し、何に惹かれ、何を心地よいと思うのかを観察していくことだ。


「昔の自分を否定する」必要もない

ここも重要だと思う。

新しい自分になるというと、

「昔の自分は間違っていた」

と考えたくなる。

でも、それも必要ない。

昔の自分は、その時の環境、その時の価値観、その時の脳で、一生懸命やっていた。

その経験があるから、今の自分がある。

だから、

過去を否定するのではなく、更新する。

スマートフォンのOSと似ている。

旧バージョンが間違いだったわけではない。

その時点では必要だった。

ただ、環境が変わればアップデートする。

人間もそれくらいでいい。


可塑性には「負の方向」もある

神経可塑性というと希望のある話ばかりになりやすいが、本当は両刃の剣だ。

繰り返すほど強くなるのなら、

心配する
比較する
SNSを確認する
怒る
反芻する
他人の評価を気にする

といった行動も、繰り返せば習慣化する。

だから、

「何を始めるか」と同じくらい、「何を繰り返さないか」も重要

なのだと思う。

新しい道路を作るだけではなく、

もう必要のない道路を通らなくする。

これも後半戦では大切なのだろう。


何歳からでも「次の章」は始められる

若いころの脳と成人の脳は同じではない。

それでも、

「もう自分は完成した」

と考える必要はない。

むしろ何十年も生きてきたからこそ、

自分に何が合わないのか。

何に疲れるのか。

何をしていると自然なのか。

大量のデータがすでに蓄積されている。

そこに新しい経験を少しずつ加えていけばいい。

人生を全部作り直す必要はない。

一つ違う行動をする。

そして自分の反応を見る。

合えば続ける。

合わなければやめる。

また別のことを試す。

それを繰り返す。


最後に

ヘブ則を人生論にそのまま当てはめるのは少し乱暴だ。

人間の性格や人生は、シナプス一本で説明できるほど単純ではない。

それでもヘブ則と神経可塑性から、一つだけ確かなヒントをもらえる。

それは、

脳は「過去に何をしてきたか」だけでなく、
「これから何を繰り返すか」によっても作られていく。

ということだ。

だから、

「自分はこういう人間だから」

で話を終わらせなくていい。

過去の自分は履歴であって、設計図ではない。

今の自分も完成形ではない。

これから見る景色、読む本、会う人、歩く場所、遊ぶこと、学ぶこと。

その一つ一つが次の自分を作っていく。

だから後半戦は、

過去の延長線上に未来を固定するのではなく、新しい経験を入れながら、自分自身を少しずつ更新していく。

そんな生き方でいいのだと思う。

人生はまだ、書き換え可能である。

健康講座1079  イライラを脳科学的に検証してみた

 



普段なら気にならない一言に、今日は妙に腹が立つ。少し頼まれただけなのに、「今、それを言う?」と思ってしまう。

そんなとき、脳の中では何が起きているのでしょうか。

「ドーパミンが足りないから?」「セロトニンが減っているから?」

実は、イライラは一つの物質の増減では説明できません。思いどおりにならないことへの反応に、ストレスや身体の状態が重なり、気持ちや行動を調整しにくくなる。 これが、研究から考えられる仕組みの一つです。

身近な場面とつなげながら、脳内の動きを見てみましょう。

イライラの始まりには、「こうなるはずだった」があります。

例えば、ようやく仕事が終わり、「これで少し休める」と思った瞬間に、追加の用事を頼まれたとします。

用事そのものは小さくても、「休めるはずだった時間」が失われると、腹が立つことがあります。

研究では、このように期待した結果が得られない状況を「欲求不満を伴う非報酬」と呼びます。難しい名前ですが、「楽しみにしていたことが実現しない」「頑張ったのに期待した結果が返ってこない」ということです。こうした状況への脳の反応と、怒りやすさとの関連が調べられています。関連する脳画像研究、2021年

もちろん、期待が外れれば必ず怒るわけではありません。残念に思うことも、諦めることもあります。そこに「不公平だ」「断れない」「もう余裕がない」という受け止め方が重なると、イライラを理解する手がかりになります。

休憩の例は、研究を日常生活に当てはめた説明です。その場面で脳内物質を直接測ったという意味ではありません。

ドーパミンは、「予想と結果の違い」に関わります。

ドーパミンは、神経細胞同士の情報のやり取りを助ける「神経伝達物質」です。よく「快楽物質」と呼ばれますが、期待や学習、行動の調整にも関わっています。

サルのドーパミン神経を調べた研究では、予想していなかった報酬が得られると活動が増え、来るはずの報酬が来ないと、そのタイミングで活動が下がることが示されています。

この「期待と実際の結果の差」を、専門用語で「報酬予測誤差」といいます。脳が「予想より良かった」「思ったほど良くなかった」という違いを、次の行動に生かす仕組みです。Schultzら、Science、1997年

ただし、ここで起きているのは、一部の神経の一時的な活動の変化です。期待が外れたからといって、脳全体がドーパミン不足になるわけではありません。

さらに意外なのは、強いストレスでは、脳の場所によってはドーパミンの放出が増えることです。

おでこの奥にある「前頭前野」は、情報を整理し、考えを保ち、行動を選ぶことに関わります。この場所では、ドーパミンの作用が強すぎても弱すぎても、情報をうまく扱えなくなることが分かっています。Vijayraghavanら、Nature Neuroscience、2007年

つまり、ドーパミンは多ければ多いほどよい物質ではありません。「イライラするから増やせばよい」という話にはならないのです。

強いストレスでは、「一呼吸おいて考える」ことが難しくなります。

普段なら、「相手にも事情がある」「今すぐ返事をしなくてもいい」と考えられる。それなのに、追い詰められたときには、そうした考えが浮かばなくなることがあります。

この変化に関わるのが、ドーパミンと「ノルアドレナリン」です。

ノルアドレナリンは、脳を目覚めた状態に保ち、注意や警戒を調整する神経伝達物質です。適度に働いていると、必要なことに注意を向ける助けになります。

しかし、強いストレス、特に「自分ではどうにもできない」と感じるストレスでは、前頭前野でドーパミンやノルアドレナリンの放出が増え、考えを整理する働きが低下することがあります。Arnsten、Nature Reviews Neuroscience、2009年

同じ物質なのに、なぜ作用が変わるのでしょうか。

神経細胞には、物質の信号を受け取る「受容体」という装置があります。ノルアドレナリンでは、量によって強く働く受容体の種類が変わり、細胞への影響も変わります。ドーパミンでも、刺激の強さによって情報処理への効果が変わります。

細胞レベルの研究では、こうした刺激が、神経細胞同士で情報を保つ仕組みを強めたり、弱めたりすることが示されています。Wangら、Cell、2007年

日常の言葉に置き換えるなら、強いストレスの下では、不快な出来事に反応しながら、別の見方や穏やかな対応を考えることが難しくなり得るということです。

ただし、詳しい細胞の仕組みは動物研究で分かった部分も多く、日常のイライラがすべてこの通りに起こると確認されたわけではありません。

アドレナリンは、身体の「緊張した感じ」に関わります。

腹が立つと、心臓がドキドキする。手が震える。身体に力が入る。

こうした身体の反応には、交感神経やアドレナリンが関わります。交感神経は、心臓や血管などを無意識に調整している神経系の一部です。アドレナリンは、主に腎臓の上にある「副腎」から血液中に放出され、心拍やエネルギー供給などを変化させます。カテコールアミンの生理学

神経細胞の情報伝達に使われる物質と区別して、血液を通じて身体の各所に働く物質を「ホルモン」と呼びます。

ただし、アドレナリンによる反応は、恐怖や運動、試合前の緊張でも起きます。アドレナリンだけで「怒り」という感情が決まるわけではありません。

なお、ドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンは、体内で作られる経路がつながっています。しかし、「楽しいときのドーパミンが、怒った瞬間にアドレナリンへ変わる」という意味ではありません。作られる細胞や、放出される場所を分けて考える必要があります。

コルチゾールは、ストレスへの対応を支えます。

もう一つ、ストレスに関係するホルモンが「コルチゾール」です。

脳からの指示が下垂体という小さな器官を経由して副腎に伝わり、コルチゾールの分泌が促されます。この連絡経路を「HPA軸」と呼びます。

コルチゾールは、血糖や免疫などを調整し、脳にも影響します。同時に、分泌を抑える方向の調整にも関わります。身体がストレスに対応するために必要なホルモンです。コルチゾールの生理学

したがって、「イライラするのはコルチゾールが多いから」と一律には言えません。分泌には一日のリズムがあり、ストレスが続く期間や個人によっても反応は違います。

セロトニンは、「減れば怒る」と言い切れるのでしょうか。

セロトニンは「幸福物質」として有名ですが、気分や行動の調整などに関わる神経伝達物質です。幸福の量をそのまま表すものではありません。

セロトニンの材料になるのが、「トリプトファン」というアミノ酸です。研究では、特別な飲料を使ってこの材料を減らし、セロトニンが作られにくい条件で脳がどう反応するかを調べることがあります。

Passamontiらの研究では、この方法を用いて、健康な成人が怒った顔を見るときの脳を調べました。最終的に解析した19人では、前頭前野と「扁桃体」の連携に変化が見られました。

扁桃体は、危険を含む重要な刺激の評価や、感情に関係する学習などに関わる脳の領域です。「怒り専用の装置」ではありません。

この研究で大切なのは、脳の連携には変化があっても、本人が報告した気分には有意な変化がなかったことです。「セロトニンを減らしたら、みんな怒りっぽくなった」という結果ではありません。Passamontiら、Biological Psychiatry、2012年

セロトニン系が感情に関係する回路に影響することは支持されています。しかし、イライラしているという理由だけで「セロトニン不足」と判断することはできません。この研究は、サプリメントで材料を増やせば解決すると証明したものでもありません。

では、結局、なぜイライラするのでしょうか。

「これで休める」と思っていたところに、追加の仕事を頼まれた場面へ戻ってみましょう。

最初に、期待が外れます。さらに、「断れない」「自分ばかり負担している」と感じれば、ストレスが強まるかもしれません。ストレス反応が強い状態では、前頭前野で考えを整理することが難しくなり、身体も緊張します。

その結果、普段なら出てくる「少し待ってもらおう」「明日に回せないか聞こう」という選択肢が浮かびにくくなり、きつい言い方が先に出てしまう。これは、複数の研究を日常に当てはめた説明用のモデルです。

「期待や目標が妨げられた」という出来事に、「負担が大きい」という受け止め方と、「反応を調整しにくい状態」が重なる。 イライラは、このような組み合わせから理解できます。

そこに、必ず「セロトニン低下」が起きると付け加える根拠はありません。誰でも同じ物質が同じ方向に動く、共通の化学式があるわけではないのです。

寝不足の日に腹が立ちやすいのも、脳の状態と関係します。

睡眠を奪われた人を調べた研究では、不快な画像への扁桃体の反応が強まり、前頭前野との連携が低下することが報告されています。Yooら、Current Biology、2007年

ただし、これは強い睡眠不足の実験です。少し睡眠が短かった日にも同じ変化が起きる、とまでは言えません。それでも、出来事への反応を考える際に、睡眠状態も確認する理由になります。

「いつもより腹が立つ」ときは、相手の言動に加えて、自分が十分に休めているかも見てみる。それだけでも、状況の捉え方に余地が生まれます。

対処を考えるなら、「どの物質が足りないか」より「何が負担になっているか」です。

その場では、可能なら少し離れる。すぐに返事をせず、身体の緊張が落ち着いてから話す。落ち着いたら、「休憩が取れないのか」「依頼が集中しているのか」「断る余地がないのか」を考え、繰り返す条件を調整します。これらは、研究を日常生活へ応用した提案です。

身体側から整える方法としては、呼吸法にも研究があります。一日5分、約一か月の実践を比較した試験では、長く息を吐くことを重視した呼吸法で、肯定的な気分の改善や呼吸数の低下が見られました。Balbanら、Cell Reports Medicine、2023年

イライラを必ず消す方法でも、セロトニンを増やすと証明された方法でもありませんが、苦しくない範囲でゆっくり息を吐き、落ち着く時間を作ることは、試せる工夫の一つです。

イライラを感じたとき、「自分は何を邪魔されたと感じたのか」「今、どれくらい余裕があるのか」と考えてみる。睡眠や休息を確保し、必要なら負担を減らす。

脳の仕組みを知ることは、自分の反応を理解し、次の行動を選びやすくする助けになります。

※イライラが急に強くなった、長く続く、生活への影響が大きい場合は、身体の病気や薬の影響なども含めて医療機関で相談してください。


2026/09/28

健康講座 1078 NT-proBNPは「心不全の数字」だけではない 5年間で上昇した人は、その後の死亡リスクが高かった――久山町研究から考える血液検査の読み方

 



健康診断や循環器内科の検査で、BNPやNT-proBNPという項目を見たことがあるでしょうか。

一般には「心不全を調べる血液検査」と説明されることが多く、数値が高いと、

「心臓が悪いのだろうか」
「もう心不全なのだろうか」

と不安になる人も少なくありません。

今回紹介する日本の研究から見えてきたのは、もう少し奥行きのある話です。

結論を先に言えば、

NT-proBNPは、一度の数値だけでなく、数年かけて上がっているかどうかにも意味がある。
ただし、上昇したからといって、すぐに「心不全が進行した」と決めつけてはいけない。

ということです。

NT-proBNPの上昇は、心臓だけでなく、腎機能、心房細動、血圧、炎症、筋肉量の低下、低栄養、がんなど、全身で何らかの変化が起きている可能性を知らせる「警告灯」かもしれません。

大切なのは、数字だけを見て病名をつけることではありません。

「なぜ、この人のNT-proBNPは以前より上がったのだろう?」

この問いを立てることこそ、今回の研究が伝えたい最も実践的なメッセージです。


まず、BNPとNT-proBNPとは何か

心臓は、全身へ血液を送り出すポンプです。

血圧が高い、体内に水分がたまる、心臓の壁が厚くなる、心臓の中の圧力が上がるなどの理由で心臓に負担がかかると、心筋は引き伸ばされます。

そのとき、心臓から分泌される物質のひとつが「B型ナトリウム利尿ペプチド」です。英語ではB-type Natriuretic Peptide、略してBNPと呼ばれます。

心臓では、まずproBNPという前段階の物質が作られ、それが次の2つに分かれます。

  • BNP

  • NT-proBNP

BNPには、体内の余分なナトリウムや水分を尿として排出しやすくしたり、血管を広げたりして、心臓の負担を軽くしようとする働きがあります。

一方のNT-proBNPは、それ自体が強い作用をするというより、血液検査で心臓への負荷を推測するための「痕跡」として利用されています。

いわば、心臓が発する、

「今、少し負担がかかっています」

というメッセージを血液中から読み取る検査です。

ただし、ここで非常に重要な点があります。

NT-proBNPが高いことと、心不全であることは同じではありません。

心不全では高くなりやすいのですが、年齢、腎機能、心房細動、血圧、弁膜症、肺の病気、炎症、貧血など、さまざまな要因の影響を受けます。反対に、肥満のある人では、心臓に負担があってもBNPやNT-proBNPが比較的低く出ることがあります。

したがって、この検査は「心不全か、そうでないか」を一発で判定する検査ではありません。

症状、診察所見、心電図、胸部X線、心エコー、腎機能などと組み合わせて解釈する必要があります。


今回取り上げられたのは「久山町研究」

今回の論説は、2026年9月に『Circulation Journal』へ掲載されたものです。そこで解説されている中心的な研究が、Katoらによる久山町研究です。

久山町研究とは、福岡県久山町の住民を長期間追跡し、脳卒中、心血管疾患、認知症、糖尿病などの発症や死亡について調べてきた、日本を代表する地域住民研究です。

今回の研究では、40歳以上の住民2,703人についてNT-proBNPを約5年の間隔で2回測定しました。

そして、その変化によって参加者を大きく3つに分類しました。

  • 25%以上低下したグループ

  • 25%未満の増減に収まったグループ

  • 25%以上上昇したグループ

その後、中央値で10.3年間、参加者の経過を追跡しました。

「中央値」とは、全員の追跡期間を短い順に並べたとき、ちょうど真ん中に位置する期間です。「平均約10年」とまったく同じではありませんが、研究全体のおおよその追跡期間を示しています。

追跡期間中に497人が死亡しました。

その内訳は、

  • 心血管疾患による死亡:108人

  • 心血管疾患以外による死亡:389人

でした。

ここでいう「心血管疾患」とは、心不全、心筋梗塞、脳卒中など、心臓や血管に関係する病気を指します。


NT-proBNPが上がった人では死亡リスクが約1.7倍

約5年間でNT-proBNPが25%以上上昇した人は、数値に大きな変化がなかった人と比べて、その後の死亡リスクが高くなっていました。

年齢や性別、もともとのNT-proBNP値、血圧などの影響を統計学的に調整した結果は、次の通りです。

結果ハザード比
全死亡1.73
心血管死1.76
非心血管死1.71

ハザード比とは、追跡期間中にある出来事が起こる速さをグループ間で比較した数字です。

ハザード比1.73は、単純化していえば、

NT-proBNPが上昇したグループでは、変化のなかったグループより、追跡期間中の死亡リスクが約73%高かった

という意味です。

ただし、これは「NT-proBNPが上がると73%の確率で死亡する」という意味ではありません。また、NT-proBNPの上昇が死亡を直接引き起こしたことを証明したわけでもありません。

この研究で示されたのは、あくまで「上昇した人では、その後の死亡が多かった」という関連です。

ここは因果関係と区別する必要があります。


125pg/mL未満なら安心、とは言い切れない

NT-proBNPでは、125pg/mLという数値がひとつの目安として使われることがあります。

しかし、125pg/mLは「これ未満なら完全に正常」「これ以上なら必ず心不全」という絶対的な境界線ではありません。

今回の研究では、最初のNT-proBNPが125pg/mL未満だった人でも、125pg/mL以上だった人でも、数年間で値が上昇した人では、その後の死亡リスクが高くなっていました。

関連の強さは、もともと125pg/mL以上だった人で、より強い傾向がみられました。

つまり、

基準値を超えたかどうかだけでなく、その人自身の過去の値からどう変化したかにも意味がある

ということです。

たとえば、ある人のNT-proBNPが80pg/mLから110pg/mLになったとします。

110pg/mLだけを見れば、125pg/mL未満です。しかし、以前と比べると37.5%上昇しています。

もちろん、この一例だけで病気とは判断できません。測定時の体調や腎機能などによる変動もあり得ます。

それでも「基準値未満だから何も考えなくてよい」と切り捨てるのではなく、血圧、脈拍、息切れ、むくみ、腎機能などを一度確認してみる価値があるかもしれません。


なぜ心臓の検査が、心臓以外の死亡とも関係したのか

今回の興味深い点は、NT-proBNPの上昇が、心血管死だけでなく、心血管疾患以外の死亡や、がんによる死亡とも関連していたことです。

一見すると不思議です。

NT-proBNPは心臓から分泌されるのに、なぜ心臓以外の病気による死亡とも関係するのでしょうか。

考えられる理由はいくつかあります。

心臓に気づかない負担がかかっている

本人に明らかな症状がなくても、高血圧によって心臓の壁が厚くなっていたり、心臓の中の圧力が上がっていたりすることがあります。

このような、まだ心不全の症状が表面化していない段階でも、NT-proBNPが上昇する可能性があります。

心筋虚血、弁膜症、肺高血圧症などが隠れている場合もあります。

心房細動が生じている

心房細動とは、心臓の上側にある心房が不規則に細かく震える不整脈です。

心房細動があるとNT-proBNPは上昇しやすくなります。本人が動悸を感じない「無症候性心房細動」もあるため、数値の上昇が不整脈発見の手がかりになることがあります。

腎機能が低下している

NT-proBNPは腎機能の影響を強く受けます。

腎機能が低下すると、心臓や血管に水分・圧力の負担がかかりやすくなります。また、NT-proBNPが体内から処理されにくくなるため、血中濃度が上昇します。

したがって、高値の原因を考えるときには、クレアチニンやeGFRといった腎機能の確認が欠かせません。

全身で炎症が起きている

炎症は、感染症だけでなく、慢性疾患や悪性腫瘍などでも生じます。

研究では、炎症性サイトカインと呼ばれる物質がナトリウム利尿ペプチドの産生に関係する可能性も報告されています。

そのためNT-proBNPは、心臓だけの異常ではなく、全身の炎症や負担を間接的に反映することがあります。

フレイルや低栄養が進んでいる

フレイルとは、加齢や病気によって体力や回復力が低下し、ちょっとした体調不良から生活機能を崩しやすくなった状態です。

体重や筋肉が減り、低栄養が進むと、体は病気に対して弱くなります。

こうした全身状態の悪化と心臓への負担が同時に起こることで、NT-proBNPが「全身の弱り」を示す一種の総合的なシグナルになる可能性があります。


体重や血糖値が下がっていたのに、なぜ危険なのか

今回の研究では、NT-proBNPの上昇が大きい人ほど血圧が上昇していました。

一方で、意外なことに、

  • BMI

  • 空腹時血糖

  • LDLコレステロール

  • HDLコレステロール

は低下していました。

これだけを見ると、

「血糖もコレステロールも体重も下がったのだから、健康になったのでは?」

と思うかもしれません。

しかし、研究者は、これを単純な代謝の改善とは解釈していません。

高齢者では、病気や低栄養、フレイル、筋肉量の低下などによって体重やコレステロール、血糖値が下がることがあります。

つまり、体重が減ることには、

  • 食事や運動による意図的で健康的な減量

  • 病気や食欲低下、筋肉減少による意図しない体重減少

という、まったく異なる2つの意味があります。

検査値が下がったからといって、必ずしも健康になったとは限りません。

特に、何もしていないのに体重が減ってきた、食欲が低下した、筋力が落ちたという場合は注意が必要です。

また、肥満のある人ではBNPやNT-proBNPが低く出やすいという「ナトリウム利尿ペプチド・ハンディキャップ」が知られています。そのため、体脂肪が減ることで、以前よりNT-proBNPが高く測定される可能性もあります。

このように、一つの数字の変化には複数の説明があり得ます。


「上昇した人の予後が悪い」と「将来予測に役立つ」は同じではない

この論説で最も重要なのが、「予後との関連」と「予測能力の上乗せ」を区別している点です。

少し難しい話ですが、研究を正しく理解するためには欠かせません。

今回、NT-proBNPが上昇した人では、その後の死亡リスクが高いという明確な関連が認められました。

しかし、

「最新のNT-proBNP値に、過去からの変化率まで加えることで、将来の死亡をどれだけ正確に予測できるようになったか」

を調べると、予測精度はほとんど改善しませんでした。

むしろ、過去からの変化率を使うモデルより、現在のNT-proBNPの絶対値を使うモデルの方が、わずかに予測能力が高かったのです。

研究では、C統計量、NRI、IDIなどの指標を使って予測精度を評価しています。

C統計量とは

将来、死亡する人と死亡しない人を、予測モデルがどの程度正しく区別できるかを示す指標です。

1に近いほど区別能力が高く、0.5であれば偶然と同程度です。

NRIとは

新しい情報を加えたことで、リスクの高い人をより適切に高リスクへ、低い人を低リスクへ分類し直せたかを見る指標です。

IDIとは

高リスクの人と低リスクの人を区別する能力が、全体としてどの程度改善したかを見る指標です。

今回、最新のNT-proBNP値に変化率を加えても、これらの指標は明確には改善しませんでした。

したがって、この研究から、

「NT-proBNPを定期的に測定し、変化率を計算すれば死亡予測が大幅に正確になる」

とは言えません。

最新の値は、過去からの変化によって得られる情報の多くを、すでに含んでいる可能性があります。


下がった人の死亡リスクが、明確に低くなったわけではない

もうひとつ重要なのは、NT-proBNPが25%以上低下した人で、死亡リスクが有意に低くなったわけではなかったことです。

つまり今回の結果は、

「上がることには注意が必要だが、下がれば必ず安心できる」

という単純な左右対称の関係ではありませんでした。

また、この研究は地域住民を観察した研究です。心不全治療を受けている患者さんについて、治療前後のNT-proBNPを評価した臨床試験ではありません。

そのため、この結果だけを使って、

  • NT-proBNPを何%下げることを治療目標にする

  • 数値を下げるために薬を追加する

  • 数値が下がったので病気が改善したと判断する

ことはできません。


NT-proBNPが上昇したら、実際には何を確認するのか

NT-proBNPが以前より上がっていた場合、まず必要なのは「すぐに心不全の薬を始めること」ではありません。

数値が上がった理由を、順番に確認します。

1.一時的な変動ではないか

感染症、発熱、脱水、血圧上昇、不整脈、腎機能の一時的悪化などでも値は変動します。

体調が不安定な時期の測定であれば、状態が落ち着いてから再検査することがあります。

検査法や測定施設が異なる場合も、単純比較には注意が必要です。

2.心不全を疑う症状がないか

次のような症状がないか確認します。

  • 以前より息切れしやすい

  • 階段や坂道がつらくなった

  • 夜、横になると息苦しい

  • 足がむくむ

  • 短期間で体重が増えた

  • 動悸や脈の乱れがある

  • 疲れやすくなった

  • 食欲が低下した

ただし、高齢者では典型的な息苦しさではなく、元気がない、歩く速度が落ちた、食欲がないといった形で現れることもあります。

3.血圧と脈を確認する

高血圧は、心臓に長期間負担をかけます。

また、心房細動などの不整脈が隠れていないか、脈拍や心電図で確認します。

家庭血圧やスマートウォッチの記録が診断の参考になる場合もありますが、最終的な判断は医療機関で行います。

4.腎機能・貧血・栄養状態を確認する

血液検査では、腎機能、血算、肝機能、炎症反応、アルブミンなどを確認します。

意図しない体重減少があれば、食事量、筋肉量、消化器症状、悪性腫瘍を含む全身疾患なども考える必要があります。

5.必要に応じて心電図や心エコーを行う

心電図では不整脈や心筋虚血の手がかりを探します。

心エコーでは、心臓の収縮力だけでなく、心臓の壁の厚さ、弁膜症、心房の拡大、心臓が広がるときの機能などを調べます。

特に高齢者の心不全では、収縮力が保たれている「左室駆出率の保たれた心不全」が少なくありません。「心臓の動きが悪くないから心不全ではない」とは限らないのです。


数値だけで心不全治療を始めてはいけない

今回の研究は、NT-proBNPが上昇していたら何らかの病気や全身状態の変化を探す価値があることを示しています。

しかし、

NT-proBNPが上がったという理由だけで、心不全治療薬を開始する根拠にはなりません。

利尿薬などを不必要に使用すれば、脱水、血圧低下、腎機能悪化、電解質異常を起こす可能性があります。

治療すべきなのは「検査値そのもの」ではなく、検査をきっかけに見つかった病気です。

高血圧が原因なら血圧を整える。
心房細動があれば適切に治療する。
弁膜症があれば重症度を評価する。
腎機能が悪化していれば原因を探す。
低栄養や筋肉減少があれば、その背景を調べる。

この順番を飛ばしてはいけません。


この研究には限界もある

この研究結果は重要ですが、まだ分からない点もあります。

第一に、NT-proBNPを測定したのは約5年間隔の2回だけです。

2回の測定では、値が何年も持続的に上昇していたのか、2回目の検査時に一時的に上昇していただけなのかを区別できません。

第二に、2回の測定の間に生じた薬の変更、生活習慣、心不全による入院、心房細動、がん、心臓の構造変化などを完全には把握できていません。

第三に、2回目の検査を受けなかった人が、対象候補者の約18%いました。

その人たちは、研究に参加し続けた人より高齢で、最初のNT-proBNPも高かったと報告されています。体調の悪い人ほど2回目の検査に参加できなかった可能性があり、結果に偏りが生じた可能性があります。

第四に、上昇グループでは、最初のNT-proBNP中央値が比較的低い傾向がありました。

たとえば50から75への変化も、100から150への変化も、どちらも50%上昇です。最初の値が低いほど、わずかな差でも変化率が大きく見えやすくなります。

さらに、偶然低く測定された値が次回には平均的な値へ戻る「平均への回帰」の影響も考えられます。

第五に、この研究は観察研究です。

NT-proBNPの上昇と死亡との関連は示せても、上昇自体が死亡を引き起こしたとは証明できません。反対に、まだ診断されていない病気が進行したため、NT-proBNPが上昇した可能性もあります。これを「逆因果」といいます。

また、日本の一地域における研究なので、他の地域や国でも同様の結果になるかは、今後の検証が必要です。


定期的に全員へ測定すべきなのか

今回の研究だけでは、健康な人を含むすべての住民に対して、NT-proBNPを何年ごとに測定すべきかまでは分かりません。

何歳から始めるのか、何年間隔が適切なのか、どの程度の上昇を精密検査の基準にするのか、医療費に見合う効果があるのかも確立していません。

一方で、ナトリウム利尿ペプチドを使ったスクリーニングの可能性を示す研究はあります。

STOP-HF試験では、BNPを使ったスクリーニングと循環器専門医を含む連携診療を組み合わせることで、新たに診断される心室機能障害と心不全を合わせた発生が減少しました。

重要なのは、BNPを測ったこと自体よりも、異常が見つかった人を適切な評価と診療につなげたことです。

検査だけを増やし、その後の診療につながらなければ、十分な意味はありません。


この研究が本当に言いたいこと

この論説のタイトルは、

「地域住民におけるNT-proBNPの連続測定――動的なリスクシグナルか、予測精度を上乗せする指標か?」

という意味です。

研究の答えは、次のように整理できます。

NT-proBNPが数年間で上昇した人では、その後の死亡リスクが高かった。したがって、NT-proBNPの経時的な上昇は、心臓や全身状態が変化していることを示す重要なシグナルと考えられる。

一方で、過去からの変化率を最新のNT-proBNP値に追加しても、将来の死亡を見分ける統計学的な予測能力は、ほとんど向上しなかった。

したがって、現時点では、

  • 全員に定期測定する

  • 変化率を新しい治療目標にする

  • 25%以上上昇したら心不全と診断する

  • 数値だけを根拠に心不全治療薬を始める

という段階にはありません。

この研究の価値は、リスク計算を少しだけ精密にすることよりも、医師や患者に立ち止まって考えるきっかけを与えることにあります。


まとめ

NT-proBNPは、単なる「心不全の判定値」ではありません。

心臓に加わる圧力や容量の負担だけでなく、腎機能、不整脈、炎症、加齢、フレイル、低栄養、筋肉量の低下など、さまざまな影響を受ける検査です。

久山町研究では、約5年間でNT-proBNPが25%以上上昇した人は、ほとんど変化しなかった人と比べ、その後の全死亡、心血管死、非心血管死のリスクが約1.7倍高くなっていました。

ただし、これはNT-proBNPの上昇が死亡の原因であることを証明したものではありません。

また、最新のNT-proBNP値に変化率を加えても、死亡予測の精度は明確には改善しませんでした。NT-proBNPが低下した人の死亡リスクが、はっきり下がったわけでもありません。

したがって、この研究から導かれる現実的な対応は、

NT-proBNPが上昇したら、すぐに心不全と決めつけるのではなく、まず再確認し、心臓・腎臓・血圧・不整脈・貧血・栄養状態などを丁寧に見直す

ことです。

NT-proBNPは病名を告げる診断書ではありません。

車に例えるなら、原因までは教えてくれないものの、点灯したら一度点検した方がよい「警告灯」に近い検査です。

この論文の最後の一文が、すべてを端的に表しています。

重要なのは、リスクスコアをわずかに改善することではない。
「なぜ、この人のNT-proBNPは上昇しているのか」と問うことである。

数字を恐れるのでも、無視するのでもありません。

数字を入口にして、その人の体で何が起きているのかを考える。

それが、NT-proBNPの最も賢い使い方なのだと思います。


※本記事で紹介した研究は、病気の診断や治療を個別に決定するものではありません。NT-proBNPの基準値や解釈は、年齢、腎機能、体格、心房細動の有無、症状、測定目的などによって異なります。実際の結果については、主治医と相談してください。

主な参考文献:

ロゴ決定

ロゴ決定 小川糖尿病内科クリニック

皆さま、こんにちは。 当院のロゴが決定いたしました。 可愛らしいうさぎをモチーフとして、小さなお花をあしらいました。 また、周りは院長の名字である「小川」の「O(オー)」で囲っております。 同時に、世界糖尿病デーのシンボルであるブルーサークルを 意識したロゴとなって...